2005年5月5日木曜日

荒れるブログの作り方



ブログは何故荒れるのか。
それはブログを荒らす人間がいるからである。

ブログは何故炎上するのか。
それはブログを炎上させる人間がいるからである。

そして、ブログがあるからだ。



荒れるブログを作るのは簡単である。
必須なのは荒らす事が可能な場所であり、投稿毎にコメント欄とトラックバック欄がデフォルトで装備されているブログというツールはその条件を満たしおり、ブログには荒れる条件が全て揃っているといってよい。

荒らせる場所がある、というだけでは荒れない。
荒れるブログを作るには、荒らしに荒らす動機を与えねばならない。



荒らしに荒らそうと思わせるのに最も効果的な文章は、他人を見下し馬鹿にして、軽蔑するというものである。

職業、学歴、情報量。趣味、知識、文章力。身分、年齢、恋人の数。
気に入らないものを「(笑)」と他を軽蔑し見下せばよいのである。

「ドラクエをやる人間は頭がよく、FFをプレイする人間は頭が悪い」といったものや、「団塊世代は頭が良く、今の若者は頭が悪い」といったもの、「お酒を飲む人間は」「喫煙者は」「ギャンブルを」「二十歳を過ぎてアニメ」といったようなたわいもないものでもよいから、とにかく見下して馬鹿にすればよい。
見下された側、馬鹿にされた側の人間はそれを不満に思い、貴方に敵意を抱く。
彼らはその発言を目にした時点で脊髄反射で荒らす事もあるし、潜在的荒らしとなり次のきっかけを待っていてくれるかもしれない。


「ドラクエをやる人間は頭がよく、FFをプレイする人間は頭が悪い」
という主張は、どれだけの文字数を費やしたところで説得力が無いだろう。
説得力が無いから荒らされる、というのはよくある事である。
例えば、世界中で起こっている悪い出来事の親玉はアメリカであり、フランスはその悪に立ち向かう正義の戦士、などといったまったく説得力を持たない陰謀論の元でそれに気がつかない人々や政治家を見下して馬鹿にし続ければ、そのブログは荒らしに荒らそうと思われてしまう可能性が高い。



しかし、もっと効果的なのは事実に基づく見下しである。

自身が東大生であるならば「俺is東大生」を機を見てアピールするだけでよいし、自身に教養があるならば「お前ら無教養」をアピールし続ければよい。相手が中学生であれば「あらあら僕ちゃん世間を知らないリア厨ですか、お兄さんが指導してあげましょう」などと思いっきり見下すのも効果的である。
立派な社会人(ブログ主)から見れば、「30過ぎてエロゲー語りしている素人童貞はイタイ」「尾崎豊はDQNが聞くもの」「オタクはキモイ」といったように率直な感想をありのままに事実として伝えるのもよい。

見下された人間はそれがリアリティがあればリアリティがある程神経を逆なでされる。



より荒らされるには、相手の最も弱い所だけを指摘して軽蔑し続けるとよい。

実世界での対話において、相手の最も弱いところ、駄目な点を指摘すると相手は納得し、説得に応じて引き下がる事もある。「俺は北九州で一番馬頭琴をうまく奏でられるんだ!」と主張する37歳バツ2のフリーターに対して「収入に繋がらない馬頭琴から距離を置き、定職を探すべきだ」と指摘するのは効果があるだろう。

しかし、ウェブ上では相手の最も駄目な所を指摘するのは逆効果だ。
それをすると、荒らしは貴方の弱い所、駄目な所を必死に探し、それを見つけて荒らす。見つからなくても独自の解釈を加えて荒らす。独自の解釈すら加えられない場合でもただ荒らす。





では、逆に荒れないブログを作るにはどうすればいいのか。
これも、荒れるブログを作るのと同じくらいに簡単である。

荒れるブログの逆、逆を行けばよいのである。
しかし、それだけでは少し足りない。



最も重要な認識しておかなければいけないインターネットのルール。
それは、インターネットには現実世界のようなルールは無いという事である。

現実世界では、現実という審判がいる。
時間の経過に従って現実という審判が下される。
その、時間経過による現実の審判を逃れられるものはいない。


しかし、ウェブ上では違う。
一切のルールは存在せず、審判も居ない。
なんでもありのノーホールズバーである。
著作権や肖像権の侵害も誹謗中傷も俺ルールも俺縛りもなんでもありの世界である。


勝ち負けを判定する人間はいない。
つまり、インターネットは勝ち負けではないのである。
「裁判になれば貴方の負けです」という現実世界側からの判定や、「法的に言うと貴方の側に非があります」といった勝ち負けの通達や、常識論は一切が無効化される。





では、インターネットとは何であるのか。
それは、説得である。


説得の1段階目で絶対にしてはいけない事。
それが、見下しと、軽蔑と、攻撃である。
見下されたものは根にもち、潜在的荒らし化する。
軽蔑されたものは根にもち、潜在的荒らし化する。
攻撃されたものは根にもち、潜在的荒らし化する。

その時点で荒らしと化さなくても、ブロガーが隙を見せた瞬間に彼らは表側に現れて、荒らしと化すのである。ブログには日々新規客が訪れるからして、一段階目も二段階目も無く、もしも荒らされないままコメント欄を閉鎖する事無く都合のいいブログを形成したいと望むならば、見下しと軽蔑と攻撃は厳禁である。



つまり、インターネット上では勝ちを主張し、勝ちを急いだら負けである。

世界には思慮が足りない人が大勢居る。
というよりも、思慮が足りている人はいない。
誰かしらなにか隙を持ち、誰かしら何かミスをする。
荒らしが大勢いるならば、その中から弱い相手を見つけ出すのは簡単である。

しかし、それをやってはおしまいである。
それ、即ち「弱い相手を見つけ出して指摘し、正当性と勝利を主張する」という事をやるというのは、それ以外の箇所を無視する論点ずらしに他ならない。

それがディベートであれば審判がいて、相手を論破した時点で「勝ち!」と宣言してくれるのだろうが、インターネットには審判などいないからして、「俺は負けていないよ」といったらその人は負けていない事になるのである。審判のいるインターネット外に問題を持ち出す事は、コストと労力とリターンから見て不可能に近い。


相手の弱い所には目を瞑り、もっとも中心に近いまともである点を説得して説き伏せる以外に手は無い。ブロガーは誰しもが弱点、負けるポイントを持つものである。一度やってしまうと、やりかえされてネガキャン合戦化し、一切の対話が成り立たなくなる可能性が非常に高い。地道に説得するしか無いのである。


勝てる相手は必ずいるが、それを相手にしたら負け。
そもそも、荒らしというのはその存在だけで卑怯でありアンモラルであるからして、存在からして勝ちである。それを相手にお前負けだ俺勝ちだなどやるのは馬鹿の所業に他ならない。



説得を行う場合、注意しなければいけない点がある。
それは、格差を圧力として利用しないという事である。

例えば、医療問題について医者のブログが荒れたとする。
そこで説得しようと「現場を見ればわかりますよ」と情報格差を持ち出したら、いくら事実事例をあげようと、嘘でたらめとご都合主義のインターネットでは貴方の情報格差、経験は一切の効果を持たない。インターネットは作り話と見分けがつかない体験談にうんざりしているのである。

「あなたは現場を知らない」
「実際に見れば変わるでしょう」
「知的バックボーンが足りないからそういう結論に辿り着く」
それらが事実であり、それを持ち出せば絶対に勝てるという状況であっても、それを行ってはならない。出来る限り情報格差を隠蔽しながら地道に説得し続けるしか無いのである。




荒らされたくない場合は、他にもいくつかの注意点がある。

自虐ネタ、というものがある。自分を見下し、軽蔑し、攻撃し、時には笑うというものである。それは、自分にとっては卑下、上品に言えば謙遜であったとしても、その「わたくし」と共通点を持つ人間には、見下され軽蔑され攻撃されたのと同じ効果になる。


自虐無し、見下し無し、軽蔑無し、攻撃無し、嘲笑無しで説得。
「そんなブログ、楽しくも面白くも無いだろ」
というのには、確かに一理ある。しかし、一厘しか無い。

やらなくても楽しくも面白くも出来る人間は大勢いるし、無理だと思っている人でもやってみれば出来る可能性は有る。やるならやるで、うまく慎重にやりればよいだけの事である。



インターネットには信者がつきものである。
もっと緩やかな言葉で言うと、熱心なファンである。
お気に入りに登録した時点で熱心なファンであるとも言えるからして、よっぽど偏ったブログでない限り顧客の大半は信者であるとも言い換えられる。


それら、信者がいる事は何の問題も無い。
しかし、熱心な信者がいる事には多少の問題がある。


熱心な信者は、冷静な信者や熱心なファンとは違う。
ブロガーと自分を一体化させ、ブロガーの言う事は全て受け入れる。時によっては、一言苦言を呈して受け入れるという、より巧妙な無条件降伏を行う。


信者は絶対であり、信者は裏切らない。
オフ会で二度呑んだとか、同じミュージシャンを信奉しているとか、同じ作家を好きだからとか、初めてコメント欄に書き込んでくれたとか、リンクを張ってくれたといったような些細でくだらない理由をきっかけとして、ウェブ上では特別な関係が簡単に構成される。
そしてそれら親密な関係は、ふとしたきっかけで教祖と信者の関係と化す。


信者はブロガーを守ってくれる。
当然である。信者はブロガーを敬愛しており、有り難がっている。
その点で、信者は荒れないブログの一要素であると言ってもよい。

しかし、信者には他の側面がある。コメント欄やトラックバック欄に存在する信者はブロガーと同一視されてしまうのである。
信者はブロガーが見下していない相手をも、勝手に見下したり、勝手に攻撃したり、勝手に軽蔑したりする。それがブログの空気になり、ブロガーと同一視され一纏めに一体化してしまうと、ブロガー自身がどれだけ気を使っていても元の木阿弥である。信者らが作り出した空気が狂気となって荒らしを目覚めさせた時にはもう遅く、荒れるブログとなってしまうのである。

もしも、信者に荒らしの目覚ましを鳴らされたくないと思うのならば、敵との距離を「攻撃、軽蔑しない」という形で保ったように、味方読者とも一定の距離を置き、冷静に1つ1つ論理的に地道に説得し、熱心な信者、狂信者と化すのを避けるべきである。





もしも荒らされてしまった場合はどうすればよいのか。
大きく分けて3つの対処法がある。

・飽きさせる。
・呆れさせる。
・抹殺する。


飽きさせる、という選択はコスト的に楽である。
見ないふりをして知らぬ存ぜぬで更新をし続ければよい。
どーでもよいよを地で行って、適当にやればいいのである。「荒らしは放置で」との昔から存在する鉄則通りに放置していれば、大概の荒らしは飽きてくれる。ただし、飽きてくれない熱心な粘着荒らしさんには効果が無い。


呆れさせる、という手法はリスクが高い。
荒らしに「こいつは駄目だ……」と呆れさせるのは比較的簡単である。「話の通じない奴だ」「もう違う世界に行ってしまっている」と思わせればよい。
しかし、それは非常に不誠実な対応であり、荒らしではない他の人間にも「こいつは駄目だ……」「話の通じない奴」「違う世界に行っちゃった人」と思われてしまうのである。
呆れさせる、という手法は内々の信者とサークル的にやりたい場合や、一見客を対象としたブログ以外では取るべきではない選択肢である。。


抹殺する、という選択肢は最も合理的である。
パソコンの前に張り付いたり携帯を利用するなりして、荒らしの投稿を見つけ次第削除したり、IPを弾くというのは古典的で原始的であり、抜け道はいくらでもあるいたちごっこと化すものの、最も効果的な手法である。人の目に触れなければOKなのだ。

また、コメント欄を閉鎖するというのもよい。
多くの有名人ブログにコメント欄が無い事からわかるように、コメント欄はリスクが高くて見返りが少ない。一度荒らし化してしまった荒らしの大半は暇人で、尚且つ説得に応じようとしない相手であるからして、削除しても削除しても骨折り損である。また、一度正常さを失ったコメント欄というのは熱心な信者や荒らしの娯楽場所の提供でしかないのである。
コメント欄を閉鎖する際は通告なしで行うのではなく、「ショックで眠れませんでした」「ちょっと吐きました」「食欲がありません」等の文章を潜り込ませた投稿を行うのがよい。眼鏡の似合ういたいけな女性であるとか、巨乳美女である場合は特に効果的である。しかしそのようなコメントはおっさん(by4dn)とか、太ったNEETの場合は逆効果なので、「ブログのクオリティを上げる為」といった如何にもなコメントを添えるとよい。
コメント欄の閉鎖は非難されるべきものではないのである。
もちろん、リターンを失うというデメリットはあるが、モラルが崩壊しルールの存在しないスパムも荒らしも賞賛されるインターネットにおいて、コメント欄というものはむしろ閉鎖するべきと言ってもよいような存在である。







荒れないブログにする為の防御法、それは非常に簡単である。

「コメント欄を前もって閉鎖する」
はっきり言って、これだけでよい。
念を押すなら、トラックバックも閉鎖するというのもあるが、トラックバック無しで「ブログだ!」と主張するには苦しいという一般認識があり、コメント欄の閉鎖に止めておくのが適切であろう。



もっと手軽にやるならば、はてなダイアリーに移転するのがよい。

はてなダイアリーでは新着トラックバックや新着コメントは表示されないのが常である。
しかも、あまり知られていない大きなメリットとして、はてなダイアリーはいくつエントリーを行ってもコメントは1日ごとにつく。

「NEETは犯罪者予備軍」
「パンツァーレ甲府の○○選手が骨折」
「モー娘。に新メンバー」
「ハンター×ハンターまた休載!」
という投稿を一日に行えば、

「犯罪者予備軍~中略~馬鹿」
「パンツ~中略~苦しいな」
「モー娘~中略~バー。」
「ハン~中略~ター×」
「NE~中略~ET]
「パ~ン~ツ」
といった具合に、荒れる可能性のあるコメントは2/5へと隠蔽される。
キープしていた他の話題を書くというのは余程うまくやらないと呆れさせる以外の効果を生まないもので、危険では有るのだがはてなであれば比較的自然に振舞える。

しかもはてなダイアリーは、トラックバックもコメントも目に付きにくく、サイドバー等に表示されないのが標準的なので、普通のブログでトラックバックを見づらくしているブログに生じる卑怯者感は生まれない。基本は日記であるからして、過去ログを1日分しか表示させない自動抹殺も簡単である。

おまけにはてなにはID制というものがあり、主要ブログサービスとは比較にならないくらいに記名URL入り率が高い。荒らされたくないブログを作る場合、株式会社はてなというブログサービスはは他の追随を許さない、優れたブログサービスである。





どうしても駄目になった場合。
完全に荒れ果ててしまった場合。
もう手遅れとなってしまった場合。

そういう場合は、駄目で手遅れだが、いくつかの対処療法がある。


・信者以外を完全に無視し、信者相手にウェブ上で引き篭もる教祖となる。


・mixiに引き篭もる。


・現実世界に引き篭もる。



僕としては、3つ目を強くお勧めしたい。もちろんこれは3択ではなく、他の選択肢は無数にあるのだけれど、それらは機会があれば、またいつか。


ブログがブロガーにもたらす見返りの量は非常に少い。
ブログはハイ労力ローリターンな娯楽である。ブログの管理と更新が趣味です、生き甲斐です、などというのは貧しい時間の使い方に他ならない。

もっと幸せな時間の使い方は無数に存在するのである。