2005年5月7日土曜日

マスコミのモラルとローリスク、ブログのモラルとノーリスク。



マスコミにはモラルが無い。

松本サリン事件、中越地震、そしてJR。
それだけではない。マスコミは事ある毎にモラルを欠いた取材を元に、モラルを欠いた報道を行う。マスコミにモラルを問う事がまるで馬鹿げている事に思えてしまうほど、マスコミにはモラルが無い。

それは何故か。
JRで言うと、髭の記者は何故暴言を吐いたのか。
中越地震で被災者への配慮無きインタビューを繰り返したのか。
彼らはどうして礼節も常識も欠いたモラル崩壊の取材を繰り返すのか。

それは、マスコミにとってモラルを欠いた取材を行う事がローリスクハイリターンな行動だからである。

ローリスク、ハイリターン。
だから行う。当然やる。やめない。
それだけの事である。




暴力的取材を行うマスコミには2つのタイプがある。

大会社の力を代行するマスコミ記者と、失うものが無い匿名マスコミである。

大会社マスコミ人は、非礼無礼や失礼は会社が被ってくれる。
記者に対する苦情は記者の責任問題には発展せず、たらい回しに先細り、善処しますと有耶無耶に消える。非礼無礼のモラルの欠如で上場企業を首になる記者はいないのである。記者個人はリスクを気にせずリターンを捜し求められるのである。

匿名マスコミ人は、失うものが無い。
隠し撮りだろうが嘘だろうが暴力だろうが行使して、10の取材機会から1の金を拾えれば勝ちなのである。アベレージを上げるには、より無礼に、より非礼に、より暴力的にとなればよい。常識的取材をしていては大会社マスコミに勝てないから、より過激化するのである。


それら、非礼無礼の見返りは大きい。
肉親を失って沈痛な面持ちで沈み返る人を一言でも多く喋らせれば勝ちである。
世間の非難が集中している非の有る企業の人間を逆切れを引き出せば勝ちである。
都合の悪いところは編集で切ってしまえば良いからして、少しでも引き出せば勝ちである。それら良い絵を1枚でも多く得る為に、モラルを欠いたノーリスクの取材攻撃を繰り返すのである。

「マスコミは思いあがっている」「ずれている」
そうではない。話はもっと単純である。ローリスク、ハイリターン。




インターネット上で最も暴力的な場所。
それは2ちゃんねるである。

彼ら2ちゃんねらーが暴力的に振舞えるのは、匿名に守られ失うものが無い存在だからである。それは、丁度失うものが無いマスコミの底辺を支える匿名記者、イタリア語で言うとパパリャッチが暴力的に振舞えるのと同じ構造である。

2ちゃんねるには、リターンが無い。
コミニケーション暇つぶし以上の見返りは無い。


それに対して、ブログには見返りが有る。
ブロガーの多くは匿名であり、2ちゃんねるが所持していた匿名で守られた失うものの無さ、というのはブログに持ち越された。ブロガーの本名を出しただけで警察が対応してくれるという抑止力は十分な匿名性を成り立たせていると言える。


過去、マスコミは幾度と無く世間の非難を受けた。
TBSがオウムに情報を渡して批判が集中した。しかしTBSは放送免許を免除されなかったし、被った打撃は些細なものであった。TV番組全ての視聴率ががた落ちしたりはしないし、広告業者が片っ端から引き上げられたりといった事もない。面白い番組は面白い番組として数字を取り続ける。
それは、TBSのオウム事件だけではなく他の事件においてもそうである。所沢のステロイドでTV朝日は死なないし、イセエビで日本テレビは死なない。何をやってもノーリスク、数字つまりは視聴率さえ取れば勝ちなのである。


同様に、ブログも数字至上主義である。ペイビューを取れば勝ちである。
センセーショナルに暴力的な記事を書いてペイビューさえ集めてしまえば、マスコミのモラルの無さが大会社にかき消されるのと同じように、ペイビューがモラルの無さを掻き消してくれる。

しかも、ブログの場合は2ちゃんねるとは違い実利へと変わる。その実利を求めて、よりアンモラルに数字を求め、マスコミと同じ軌道を描いている。大谷昭宏が言いっ放しで責任を問われないのと同じように、ブログでも言いっ放してペイビューを稼げば勝ちなのである。大谷昭宏がそうしたように、数字だけ手にして終わるのである。


モラルの無い暴力ペイビューが現金に変わる仕組みが出来上がってからと言うもの、それら暴力ペイビューブログは勢いを増し続けている。匿名性という2ちゃんねるのノーリスクは劣化したとはいえ継続したままで、実利が得られるのだから勢いを増すのは当然である。確かにそれは些細であり、ノーリスクローリターンくらいのものではあるが。


ブロガーは歯に衣を越えて暴力的を行えば、真偽は問われず利益を得る。
数字的においしい取材対象が見つかる度に群がるマスコミのように、数字的においしいブログ対象を見つける度にこれはチャンスだと彼らは群がる。取材対象とブログ対象にはその客層と求められる過激さの違いからずれがあるのが常なのだけれど、雪印やJR、奈良の騒音おばさんのように時としてそれは一致する。規模の大小と、ペイビューと視聴率の違いである。

例えば何かが指摘されたとしても、無視するなり削除するなり「わーい、おばかさんがきたよー」と馬鹿にするなりしていれば、インターネットの特性である遥かに速い時間の流れとペイビューの波が全ての誤りを水に流してくれるのである。実際問題、責任を取るブロガーなどというものは存在しないのである。悪しき面においては、マスコミと所謂ブログとの違いを見つけ出すのは非常に難しいとも言える。




匿名マスコミが作り上げるもの。
スキャンダル創世事業フライデー、キャッチアイ暴力のブブカ、無秩序のネットランナー、バッシングの名門週刊現代、中身の無いセンセーショナルを提供する夕刊紙。

それら暴徒化メディアと低俗化メディアを求める層は、ウェブサーファー層と一致する。
実際にインターネッターが支持したのは、2次元エログ秋葉原であり、暴徒を作り上げる探偵ファイルであり、木村剛を在日朝鮮人であると攻撃した山本一郎であり、太平さゆりからモラルと知性と知名度を引いた伊藤春香であり、痴情の縺れをありふれた鬼嫁日記である。また、もう1つの1大ジャンル化している翻訳サイトや面白サイトにおいて、著作権が問題となる事は無いし、翻訳元の明記や真偽といった当たり前の事が問われる事も無い。

彼ら成功者の事例を見ても解るように、「面白ければよい」というのがインターネットを覆う秩序である。それによって生み出される数字が力なのである。

その外側で更新され続けているウェブサイトも多数あるのだが、ウェブサーファー層はそれを支持せず、それらは数字の前に掻き消される。その数字に引きずられるように暴徒化、低俗化、面白化して数字に譲歩するブロガーは数多い。


マスコミが求めるものも数字、ブロガーが求めるのも数字、JRが求めたのも数字。
ローリスクハイリターンという数字の魔の手から逃れられるものはいないのである。
JRの問題点は無事故とダイヤの優先順位を付け間違えた点にあるのだろうと思う。

マスコミはタブーに触れない事で広告料収入という数字をきっちり守った範囲内で視聴率を得られるならばなんでもやるし、ブロガーは匿名性、無責任さを失わない範囲でなんでもやる。やっている事は同じである。


マスコミのモラルを問う、などというのはまったくもって無意味な事である。数字を止めるシステムが作り上げられない限り、彼ら数字の暴力は止まる事は無いだろう。
同様に、ノーリスクローリターンというルールが半永久的に定まってしまったウェブ上において、ペイビュー至上は永遠であり、暴力的で無責任な発言者が消える事は無いだろう。


マスコミの無秩序が改善される日が来ないのと同じように、匿名ブログとインターネットの無秩序も同様に改善される日は来ないであろう。マスコミにモラルを問うのと同じくらい、ブロガーにモラルを問うのは馬鹿げているのである。

失うものが無い限り、得られるものがある限り、彼らはそれを続けるのである。