2005年8月15日月曜日
「貴方は日本人ですか?」
「僕は日本人ではない。」
という結論から書き出すと、いらぬ波風が立つかとも思う。
僕は日本人ではない。
「日本人とは何か?」という問いとなればそれは僕の手に負える問題ではない。しかし「貴方は日本人ですか?」という問いはそれとは違う。
この問いで問われているのは自分自身が日本人であると考えているか否かであり、それ以外の要素は含まれない。即ち、自分が日本人であると思う人間は「はい、私は日本人です」と答えるし、そうでない人間は「いええ、私は日本人ではありません」と答える。よくわからない人間は「よくわかりません」と答えるだろう。
僕は「日本人ではない」と答える、即ち僕は日本人ではない。
その問いに「はい」と「いいえ」のどちらを答えても様になる人間がいる。
例えば、ラモス瑠偉だ。
ラモス瑠偉に「貴方は日本人ですか?」と問うた際に
「ワタシ日本人アルよ」と答えたら「なるほど、ラモスは日本人か。」と納得できる。
「ワタシの心ブラジルあるね」と答えたら答えたでそれはそれ、なるほどと思うだろう。
ラモスの血が日本人ではないからといって彼を「日本人ではない」と言ってしまえるものではないし、彼の国籍が日本であるからと言って「ラモスは日本人だ」と言い切れる程のものは無い。ラモス瑠偉がどう答えるのかは知らないけれど、やはり「日本人であるか/日本人でないか」という際に重要なのは自己申告であると思う。
物心がつく以前から、日本人というものは恐怖の対象であった。
日本人の影に怯え、日本人の怒号に頭を垂れ、日本人の視線に身を凍らせ、日本人の笑い声から逃げ回りながら過ごしてきた。日本人は暴力的でうそつきで、常に自分を害する存在であり続けたし、今も尚そうであると言えば間違いなくそうである。
故に「貴方は日本人ですか?」と問われた時にYESと答えられるような心のゆとりは今もないし、これからもずっとそうであり続けるだろう。故に僕は日本人ではない。
「貴方は日本人ですか?」
という問いとは別に、
「日本人とは何か」という問題であると考える事も出来るかもしれない。つまりどう思っていようと、僕という1人の人間が「日本人の条件」というものに適合していれば僕は日本人であるという事になる。
「日本人とは何か」それは即ち「日本を愛する理由は何か」という話でもある。
「日本人とは血である」と考える人にとって、自身に日本人としての血が流れている事がそのまま愛国心の根拠となる。
「日本人とは文化である」と考える人にとって、自身が日本文化の中にいる事、特に習慣や食といった極めて日常的な文化こそが愛国心の根拠となる。
「日本人とは故郷である」と考える人にとって、自らが日本で生まれ育ったという事こそが日本人であるという証であり、これもそのまま愛国心の根拠となる。
「日本人とは日本語である」と考える人にとって、日本語を喋る事あるいは日本語を読むことこそが日本人であるという証であり、これもそのまま愛国心の根拠となる。
「日本人とは日本人である」と考える人にとっては、自らが日本人に囲まれて恩恵の中で育ってきた事への感謝や思い出といったものこそが「私は日本人だ」とする理由となり、同じくそのまま「だから日本を愛するのだ」となる。
それら一般的な日本人の根拠、言い換えるならば愛国心の根拠というものが、僕には無い。
前述の通り日本人とは恐怖の対象でしかない。無論自分には故郷も無い。生まれ育った土地というのは忌まわしい記憶の詰まった場所でしか無く、心に残る風景も無ければ、もう一度行ってみたい場所などというものも存在しない。僕はもう随分と前から日本語を読めなくなってしまったし、食と食事は苦しいものでしかなく、血というものは常に憎むべき相手であった。
ではそのような自分がなぜ曖昧な愛国心、あるいは明確な愛国心というものを所持しているのか、という点については自分の中ではもう随分と前に解釈解決が突いている問題なのだけれど、ブログにとなると哀れで少し書けぬので書かない。
「あなたは日本人ですか?」という問いにどう答えようと、日本人であるという事実は変えられないというのは1つの真だ。けれどもYESと答えられないという事もまた真だ。
結論から言えば、僕は日本人ではない。