2005年8月24日水曜日

キチガイが沸いてきた。



キチガイが沸いてきた。
現状を説明するに適した言葉はそれ以外に存在しない。




私は、美しく終るというのは素晴らしいことだと思いますし、
みなが幸せに満足と歓びのうちに全てが終るのならば、
それは最高の終焉であり、もし日本民族がそのような
形で終れるのであれば、それは民族として最高の美を極めた
といっても全く過言ではないと思う。



幸せだとか満足などといった単語を免罪符にしたオナニーを気にせず流せるような寛容さは生憎持ち合わせていない。






少子化の問題は人口減少ではない。
それに伴う国の歪みである。


2/3が50歳以上となれば国が滅茶苦茶になるだろう。
高齢者は当然ながら自分達の世代に利益をもたらしてくれる政党政治家を選択する。
後から生まれた世代は生まれた年月が遅いというだけの理由で、世代の持つ1票が軽くなる。当然、その多数決がもたらす利益の享受量も少なくなる。その不平等な搾取の構造は、痛みなどといった類のものではない。絶対的な悪である。




そして、重要なのはそれが人災であるという事だ。
先の世代の無策により先の世代だけがおいしい思いをし、後の世代は苦しむ。さらに後の世代の投票力発言力は先の世代に劣るからして、その搾取の構造を変化させる事は不可能である。労働世代は常に搾取される側で堪え忍び老いを待つ、という壊れた破滅の構造が固定化されるのは目に見えている。




我々は先人達が苦して引き継ぎ築き上げ残した利益を享受して生きている。それを一方的に浪費し食いつぶす事は決して許されるものではない純然たる国家国民への犯罪行為である。


即ち我々には出来る限り良い国家を後世に残す義務がある。
少子化に対する無策即ち政治の空白は、責任の放棄であり犯罪そのものだ。




少子化問題は政治の無策空白により放置されては捨て置かれ、当面の利益になる事柄へと金と労力が注ぎ込まれる。その大本にあるのは「未来の事はどうでもよくて、今我々が一番大事」という己可愛さの利己でありエゴだ。





エゴ即ち利己により後世代に不平等を強いるというのは罪であり恥である。