2005年8月9日火曜日
「先進国に生まれた」という事実をどう受け止めるべきなのか。
日本は先進国である。
即ち我々日本人は先進国の国民である。
「先進国に生まれた」という事自体は幸せでも不幸せでもない。
先進国には先進国の幸せと不幸せがあり、後進国には後進国の幸せと不幸せがある。
けれども、「豊かな地域に生まれた」という事はしっかりと捕らえておくべきだろう。
今や世界に境界線は無く、世界中のあらゆる国と地域が不完全にのっぺりと繋がっている。
世界は1つなのだ。
不幸にも。
世界が1つである事によって、何が起こっているのか。
それが問題である。
先進国は常に後進国の未熟さを食い物にして発展してきた。自国には厳しい法規制を構築した上で、規制の無い国緩い国へとグローバリズムで侵略し、後進国の国土からあらゆるものを搾取し、利益を貪り喰ってきた。
そのような状況は、今も続いていると考えて良い。
先進国は後進国の未熟さ、発言力の無さを利用して暴利を貪る。
本国であればありえない行動を取る。
インドはボバールの殺虫剤工場から毒ガスを撒き散らした米国の企業が、彼らにどれだけの金を支払っただろうか。スラウェシ島の海に水銀を撒き散らした人々が、何の責任を取ったろうか。
後進国の法は未熟で整備が遅れており、穴だらけである事が多い。また、先進国からの投資が減ることを恐れて意図的にあらゆる面で規制の緩い国という状況を作り出されている。
そして、言うまでもなく日本国民はその恩恵を受けている。
「公害を蔓延させた中国人は馬鹿だな」という論調はまったくもって間違っている。
熊本県民は馬鹿ではない。
水俣市民は馬鹿だったのではない。
たまたまそこに工場があっただけの事だ。
栃木県民も馬鹿ではない。
たまたまそこに足尾銅山があっただけの事だ。
四日市市民も馬鹿ではない。
たまたまそこにコンビナートが建てられただけの事だ。
これらは、日本中どこであっても起こりえた事態である。
そして、現代において単純工業の一部は特定の後進国に集中しつつある。
世界の工場、即ち中国こそが今、それらの集まる場所なのだ。
それをどう捕らえるかが問題である。四日市市民や水俣市民を馬鹿にし笑いながら恩恵だけは被り続けるという人々がいたならば、それら対岸の火事に無関心な受け止め方には問題があったであろう。同様に中国からの恩恵だけは被り続けながら、その公害という事象のみを見て中国人を見下し馬鹿にする、という態度には多いに問題があると僕は考える。
日中の年間貿易総額は18兆円を超え、2005年度は20兆円を上回る事が確実視されている。日本人は意識するにしろしないにしろ、誰もが中国というメリットを受け取っているのだ。受け取らずには生きられぬのだ。
中国の食べ物は公害による汚染が怖いので食べないという事は、思想としては良い。
素晴らしいと言い換えても過言ではない。
ただし、己かわいさで他国の環境を見下しいい気になるという選択は間違いである。
差別主義者共は常に恐怖を煽り「奴らは危害を加えようとしている」と言う。
本当に彼らが我々に危害を加えているのか、それが問題だ。
その、加害者ー被害者という図式は正しいものなのかどうかが問題なのである。
また、「中国産の食べ物は食べない」という選択肢はもはや実現不可能なものである。「俺はロックンローラーになる!」と言い放つよりも恥ずかしいものだ。
中国も、中国人も、現実すら不在の俺かわいいでしかない。
僕がこの投稿で述べたいことは、先進国悪玉論ではない。
中国の公害の責任が先進国にあるなどとは、微塵も考えてはいない。
これは後進国の問題でも先進国の問題でもなく、人類の問題なのである。
我が国は公害時代を乗り越えた。それらをなんとか一段落する所まで乗り越えられたという事は、まことに幸運であったと捕らえている。そしてそれら公害は我が国の国土からは消え、別の地域に持ち出された。より安価で、より規制が緩く、よりリスクの少ない後進国に持ち出されたのである。
これは中国の問題ではない。
我々の問題なのである。