2005年8月9日火曜日
人種差別は楽しい。
人種差別は楽しい。
言うならば究極の趣味だ。
この、「アジアの安全な食べ物」というURLを自ブログにて広めたブロガーらに対しては、正直もう何も感じない。「アジアの安全な食べ物」という人種差別主義者による人種差別主義者育成ブログの周辺をとりあえず一通り全て見て回ったが、明確な怒りも無ければ、具体的な焦燥も無い。もはや、なんの感情も湧かないと言うに等しい。もしも自分が悟空であったならば迷わず地球丸ごと吹き飛ばしているだろう程度の軽いものしか感じない。
情報の裏側
ブログの力、ブロガーの責任。
その辺に関しては、上記にて書いた通りであり、ブログ的絶望の成れの果てである。
話を、戻す。
人種差別は楽しい。
言うならば至高の趣味だ。
人種差別という生き方を選択している限り、その趣味が脅かされる事は無い。
人種差別という趣味に要する費用は0に等しい。それどころか利益を生む。
人種差別という趣味が成立するのに必要な条件は「日本人である」というただ一点だ。
差別主義者である限り、その人間は永遠に優秀な人間でいられる。
10億の中国人、6000万の挑戦人よりも優秀な人間であり続けられる。
正しく人種差別とは、それを選択するだけでアイデンティティが保証される究極の趣味だ。
問題は、それを選択するのか選択しないのか、という人間の根幹たる意思だ。
本日は、「選択する」と答えない人達に向けての文章を少しだけ書く。
「人種差別は優良コンテンツである。」
まず始めに、この点を忘れてはならない。
今や人種差別を扇動するエントリーは人を集める最善の手段だ。所謂嫌韓、嫌中と呼ばれるようなエントリーだ。それらの題材は、非常に簡単にアクセスを集めることが出来る題材である。それは今回の「アジアの安全な食べ物」を巡る顛末を見ていただければよくわかるところであろう。
2ちゃんねるで掻き集めてきたURLを著作権無視の犯罪行為で盗み取り、まったく無関係な画像や無関係な情報と共にセンセーショナリズムで差別を煽れば、瞬く間にインターネットの人気者だ。
エリート差別主義者は常に「恐怖」と「愛国」を用いて煽る。
それはどこの国、いつの時代でも同じ事だ。「我々の生活が、我々の子孫が、我々の国が脅かされている」とある事無い事並べ立てて、民衆を扇動するのである。その典型的な手法にひっかかる人間がこれほどまでに多いとは、毎度の事ながら驚かされる。
言うまでもなく、「アジアの安全な食べ物」というブログはアジアの安全な食べ物を取り扱ったブログではない。差別主義者を養成し、ブログ解説者がヒロイズムに浸り自己満足を得る為のブログである。それすら理解出来ない人間は、もはやなんとも言いようがない。
「面白い記事があったから紹介しただけで、差別主義者では無い」
と述べたい人は、述べればよいと思う。
そういう事であるならば、構わないと思う。
しかし、それを述べる資格がある人間は原典を当たった人間だけだ。
何も考えずに差別主義者の扇動の尻馬に乗った人間にそれを言う資格はない。
僕は件のエントリーの中で、原典のURLを張り、中日翻訳のURLまで貼った。
それすら読まずにものを言う人間の多さには言葉に出来ないいきどおりを感じる。
詭弁のガイドラインをそのままなぞった「アジアの安全な食べ物」を見て、貼られたリンクや、書かれている文章を読んで尚「差別主義者の人種差別ブログだ」と理解出来ないような方々は、インターネットなど今すぐに止めた方が良い。節穴すぎる。甘すぎる。
「アジアの安全な食べ物」を取り上げたブログを一通り見て回ったのだが、それに添えてアフィリエイトで食べ物を売っているブロガーの多いこと、多いこと。山岡士郎商法だ。
今やどこのブログサービスにも人種差別ブログが開設され、多くのブログサービスでランキング上位に並んでいる。そしてそれらでは嫌韓、嫌中といった類の書籍物品を売っている。人種差別という題材は大量の差別主義者どもを呼び寄せる、最も簡単なアクセスアップの方法であり、同時に満たされる趣味なのだ。
彼らは楽しいから人種差別をしているのだという事、そしてその尻馬に乗るのも楽しいという事を理解しておく必要がある。
インターネットを生きる上で、最低限度の基礎知識として「人種差別はこの上なく楽しいものだ」という事だけは頭に入れておいて欲しいのである。
人種差別をするかしないか、という点は個人の自由だ。
もはや、僕が何か書けるような段階にはない。
人種差別は最高の趣味だ。
人種差別は究極の娯楽だ。
という事実を述べるに留める。