2005年8月13日土曜日

最も幸せな日



この夏初めて蚊の音を聞いた。

「夏だな」と思う。
いや、夏はもう終わった。






懸命に蚊の行方を目で追ってみたのだけれど、すぐに見失った。
全感が鈍くなっており、何も見えない。

固く生温い凍り豆腐で作られたゴム長靴を冠っているように、頭が重い。
頭痛が来ているのかどうかすら、はっきりとはわからない。

確信が持てない。






今思えば、昨日の僕の人生は光り輝き溢れていた。
一昨日はもっと素晴らしかったし、一月前となろうものならもはや夢。

奈落の底へ落ちてゆく鉄壁の不信。






何を信じ、何を信じぬのかという生きる上での取捨選択において、「信じる」のテーブルに神や仏が上がる事はこれまで無かったし、これからもありえない。では、何を信じる卓へと上げて蚊も鳴かぬ部屋を過ごすのか。

確かなことは、そこに他人というものを載せることはもう二度と無いという事だ。
無論、自分自身を信じるということも同様にありえないだろう。すき焼きの翌朝の糸こんにゃくに絡みつかれるような熱病困憊の原因は元を辿れば全て皆、自分自身の弱さによって引き起こされた物だ。




では何を信じてきたのだろう、という事になる。
少しあるいはある程度の過去昔において自分自身やどこかの誰かを信じていたのではないのかという疑惑はもみ消し無くて、存在しなかったことにしている。わからない。

確かなことは、無頼を行くには足りないという事だ。
残念ながら、それ程までには強くない。
デスピサロにはザラキだろ。






「今が底なのだから、後は上がる一方だよ」
という子供だまし。餓鬼だまし。馬鹿だまし。さだまさし。
言うならばまぬけなエール。

僕はそれを信じて生きてきたのだと思う。
確かに自分の人生は全ての瞬間においてそこが底であるように思えた。
昨日も、一昨日も、そのまた前も、どこかで明日を信じていた。
「これ以上落ちる事などありえない」と考えていた。




そんな甘言まぬけなエールに頼って生きるは愚かだけれど、昔の僕は十二分なまでに愚かであったからして、ずっとそれを信じていた。「明日はよくなる」「明後日はもっとよくなる」「10年先にはきっともう」それだけを信じて頑張っていた。

哀れ。
無知。




ブロガーになり10年先をまじまじとその目で見てしまった今の自分はあの頃よりもずっと薄汚れ醜く汚く耄碌している。深刻といえば深刻であるし、何も変わっていないと言えば何も変わっていない。

間違いなく言える事は今この気分が頂上であり、もう、これより上は無いのだろう。
sizumi.com。




なにかろくでもない事がある度に、
「今はこんなだが、4時間後は風呂の中だ。」
「今はこんなだが、8時間後は布団の中だ。」
「今はこんなだが、12時間後は眠りの中だ。」
などと励ましていたのは一体誰だったのだろう。
励まされていたのは何者だったのだろう。

記憶が消えてゆく。
全てが無くなってゆく。




過去に抱いていた感情を未来において処理する際に「そもそもそのようなものは最初から存在していなかった」とする手法がある。古典的なやり方である。

一国一城の主を夢見たが何かを間違い豪商となってしまった人間が「違う。俺は最初から豪商になりたかったのだ」とし、国も城も無かったことにして丸く収める。




それは、どうかと思う。
少なくとも、僕はやらない。

存在していたものを現状に擦り寄せ併合させて消去するなど愚の愚の下だ。
じゃあどうすればいい?
どうしようもないね。




結局の所、僕が今信じられるのは自分の人生が右肩下がりを描き続けてきたという事実と、これから先も永遠に右肩下がりを描き続けるであろうという確かな予測だけだ。

つまり、今という瞬間から未来永劫までを折れ線グラフに切り取ると、今この瞬間は最も高い場所であり、今日という一日は最も素晴らしく幸せな日、この瞬間は最も素晴らしい瞬間であるという事実だけが如実に描き出される。

そして、それを信じる。
今この瞬間素晴らしい。




肩が爛れ額が迫り出し鎖骨がひしゃげ胸骨が食い込みブログを書く。
即ち幸福の絶頂。
栄光の全て。
人生の頂点。