2005年9月4日日曜日

キモイものを正直にキモイと言って何が悪いのだろう。



暴言は慎まれるべきだ、というのは理解が出来るところである。
まず第一に暴言は人を傷つけ、第二に暴言は雰囲気を破壊する迷惑行為となる。


ただ問題は、暴言を避けても人を傷つける事は簡単であるし、暴言を避けても雰囲気を破壊する迷惑行為を行う事は簡単だという点にある。世の中はそういうブブズケドードスに長けた人が大勢いるのだ。特にインターネットには。


かと言ってそれを理由に「暴言を慎めったって抜け道だらけで無駄じゃん」などと「暴言は慎んで下さい」というルールを否定するつもりはない。一定の効果は確かにあるのだから。




一方、暴言を慎む事により生じる弊害というものもあるだろう。

嬉しいと感じた際に嬉しいと書くことや、悲しいと感じた際に悲しいと書くこと、あるいは「楽しかった」「憤怒した」といったように、人間の素直な感情を正直に書くことは、それ即ち素晴らしいエントリーであると僕は考える。




そこで思うのである。
「キモイものをキモイと言って何が悪いのか」と。

キモイものを見た際にキモイとブログに書くことは、喜びを感じた際に喜びを書き綴ることや、悲しみを感じた際に悲しみを書き綴ること、あるいは激しい怒りを感じた時に激しい怒りを書き綴ることと、どこがどう違うのだろうか、と僕は疑問に思うのだ。




「キモイ」は暴言である。

「暴言は誰かを傷つける、よって"キモイ"などとブログに書くべきではない」
とするのは、確かに一定の理解が出来るところである。






けれども、「傷つく人がいる、故に駄目」という自主規制は非常に危険である。


少しの過度な想像力を働かせれば、あらゆる言葉、あらゆるエントリーの影には「傷つく可能性がある人達」が大勢潜んでいる事が解る。

例えば当ブログなどは、真性引き篭もりが毎日のんきに幸せ気分で働きもせずに愉快なエントリーを書き続けて幾らかの読者を集めているわけである。それを見た真面目に働きながら頑張ってブログを書いているのにもかかわらず1日平均5hitしか集められずに「どうして俺の頑張って書いたエントリーを誰も読んでくれねえんだ、ちきしょうめ!」などと日々鬱積したものを抱えている人間が当ブログを目にしたならば、「ふざけるな!」と涙ながらに傷心旅行に旅に出る事は明確的な事実であり確定。

などという例は参考にならないのでもう少し普通な例で言うと、「試験に受かった」あるいは「子供が今日も一日元気だった」「おいしいものを食べた」、あるいは「今日は一日幸せでした」などという話も、その対極にいる人達が見れば酷く傷つく事だろう。




しかし、このたとえ話は卑怯である。

何故ならば、「キモイ」という他人への話を、「試験」「子供」「食事」「幸福」といったような、自分への話にすり替えて論じているからだ。




ならば、という話になる。

例えば原陽子が落選した際に「ざまーみろっ」と言うのは良いのだろうか。イラクを旅して死んだ人を、出会い系サイトで殺された人を、落選しそうな亀井静香を、「自業自得だ」と言うのは良いのだろうか。辻元清美を指して「ブサヨ死ね」と言うのは良いのだろうか。シンディ・シーハンを指して「ブサヨ死ね」と言うのは良いのだろうか。一体、誰ならば傷つけて良く、誰ならば傷つけてはならぬのだろう。






「何が人を傷つけるか」という判断を行うのは非常に危険な行為だ。

まず第一にそれは「誰ならば傷つけてもいいのか」という超主観的な基準から逃れる事は出来ないからだ。そして、想像力を働かせすぎれば何も書けなくなるし、逆に想像力を上手く働かせる事に失敗すれば傷つけ放題好き放題、言葉の暴力やり放題。それは、非常に危険な事である。


やはり、「傷つく人がいる、故に駄目」という自主規制は非常に危険な自主規制であると感じる。






そこで、キモイおたくを指して「きんもーっ☆」と書いてはいけない理由を考えてみた結果、「自分が傷つく可能性のある発言は行わない」という自主規制こそが正しいという結論に達した。

仮に「きんもーっ☆」が2ちゃんねるや匿名掲示板、あるいはキモイヲタクのブログのコメント欄といったような、正体がバレない場所に書き込まれたものであったならば、一切の問題は無かったのである。

それが「個人と結びつくブログ」という場で行われたからこそ、問題となったのだ。




結論、「暴言は匿名で」。
いや、さすがにこれは救いようがない。













そこで、キモイおたくを指して「きんもーっ☆」と書いてはいけない理由を考えてみた結果、「自分が傷つく可能性のある発言は行わない」という自主規制こそが正しいという結論に達した。


ここで重要となるのは想像力である。
世の中には多種多様な個性を持った人間が存在しているのだという事を理解し、他人の痛みを自分の痛みと感じられるような優しさと、他人の傷を自分の傷と思えるような寛容さを持つ、「人の心の解る人間」というものになれるように努めるのが、よりよい人生への1つの最短距離ではないだろうか。という堂々巡り。