2005年10月29日土曜日

仮に正しい脱オタクというものが存在するとすれば、それは脱オタクではない。



仮に正しい脱オタクというものが存在するとすれば、それは脱オタクではない。

「脱」ではない。
「入」なのだ。









脱オタクというイデオロギーは「オタクである事により人は不利益を被っている」という大前提に基づいている。脱オタクを果たすことにより、その不利益が取り払われるとされている。

しかし、それは大きな間違いである。
仮にオタクが脱オタクに成功したとして、幸せにはなれない。それはオタクにとってアイデンティティの喪失を意味し、同時に人生の全否定並びに喪失を意味するからである。「脱」を実りあるものとして結実させ、豊かさを手に入れる為には「オタク」に代わる新たなるカテゴリーに入り居場所を見つけねばならない。そしてそれは「脱」と比較して遙かに困難である。

さらに、深夜アニメと漫画とコミケとフィギア模型とエロゲームを楽しみにしていたような極めて一般的なオタクが「脱オタク」というものを果たした時に、オタク趣味に代わる満ち足りた娯楽を手に入れられる可能性は非常に少ない。

脱オタクという文脈においてその「新たなる娯楽」という要素は一切語られていない。
そこにあるものは唯一、「異性」だけである。より正確に言うならば「女」だ。




即ち、女性のオタクには「脱オタク」という概念は成り立たない。
まず何よりも男と女では性に対する欲望の基本値が別の次元にあるが故に「セックスしたいでしょう?よろしい、ならば脱オタクだ!」という論が通じない。また、脱オタクの対象とされる男オタは往々にして性的なものの対象外に位置するのに対し、同程度のレベルにある女オタは「贅沢を言わなければなんとなかる」であり、仮に駄目であった場合に必要なのは「脱オタク」ではなくダイエットあるいは美容整形である。前者は脱オタクのような労力を要する者ではないし、後者は必要とされるものが全く違ってくる。




つまり、脱オタクというイデオロギーの正体はセックス真理教なのである。
即ち、カルトだ。


少し、より少し好意的にそれを読み解くとすればそれは結婚して世帯を持って子供を産んで育てる事こそが人間のあるべき姿であるという極めて保守的な思想であり結婚は人生の墓場であるとするならば恋愛は墓場へ続く細く長い一本道を転がり落ちろ。







その明らかにおかしな脱オタクという思想に心囚われるオタクが後を絶えないその理由は、「世界はやりたいだけの男で満ちあふれている」という紛いなき事実故だ。脱オタクというピラミッドの底辺を形成しているのは、まんこにさえありつけばなんでもいいという極めて童貞的な童貞達である。

そして、ピラミッドの上位にいるのは「脱」を果たして「入」に辿り着いた人達である。
「入」の入は、挿入の入だ。




そして、「脱オタク」は「入」を意味しない。
言うまでもなく世の中にはオタクでは無いにも関わらず「入」にありつけない人々が大勢いる。脱オタクという枠組みの中で語られるのは「脱オタクしろ、さすれば君も入れられる」であり、その先は語られない。正しく脱オタクの正体はセックス真理教であり、まんこ至上主義そのものなのである。





さらに、脱オタクを語る人達が大勢いる脱ヲタ者が大勢いるのには理由がある。
彼らは自慢がしたいのだ。
それだけである。

良いとされている大学に入った人間がその学歴を自慢げに語る事で自分を満たすのと同じように、良いとされているものに入れた人間がそれをオタクという文脈上で語る。なぜならばそれは「オタクという文脈上で語らなければ誰もがやってる当たり前の事」であり、優越感を得る為にはどうしてもオタクという文脈上で語らねばならぬのである。

故に彼らは必死になって、ヲタヲタ脱ヲタ言うのである。






そして、違う意味においても脱ヲタは学歴と同じである。
「大学に入ればいい人生が待っている」というのがある部分においては真であるのと同じように、「脱ヲタすればいい人生が待っている」というものも、ある部分においては真である。しかし、多くの場合においては偽だ。


オタクの内の幾らかは「今更何をやっても手遅れ」という年齢や姿形にあるし、全身全霊を注ぎ込んで努力しても脱ヲタ入マンに成功するとは限らない。さらに、仮に成功したとしても、その先に待つ人生が華やかなるものとは限らない。


世の中には恋愛の出来ない人間、あるいは生まれついて人間を欲しない類の人達も多数存在している。また、幾らかの人達にとっての人間関係というものは快ではなく苦そのものであり、即ち脱ヲタは脱ヲタ者による脱ヲタ者の為のカルトに他ならないのである。

つまりは、脱しても入ならざるし、例え成っても満たされるとは限らぬのである。








結局の所、オタクなど存在しないのだ。
悲しい、人がいるだけである。