2005年10月30日日曜日

道具は人を凶暴にする。



戦争は終わった、と書いては煽りに過ぎる。
かと言って戦争は無かったと書いては事実とたがう。
出来る範囲内で最も適切な言葉を選べば、戦争は変わったと書く事になる。

戦争は変わった。








戦争とは何であるか、などと語れる程の知は無い。
無論のこと経験も無い。ただ、戦争とは何であるかは知っているし、十二分に理解している。即ち、僕の知る限りでは戦争とは人殺しの集合体である。人殺しの無かった戦争などというものは聞いたことが無いし、例えそれがどこかに存在していたとしても、殺意の無い戦争というものは存在せぬであろう。

つまり、戦争は変わったが、変わったのは戦争ではない。
変わったのは人殺しである。即ちこの投稿の書き出しで取り上げたものは戦争ではなく、人殺しの集合体であるからして、戦争は終わったなどというピントのずれた書き出しを採用するわけにはいかなかったし、人殺しは無かったと書いてしまっておれば、呆れられて見捨てられる事は目に見えていた。戦争は変わった、という言葉の選びは読み手の興味を幾分かは繋ぎ止めておくために選んだ最も適切な言葉であり、そのセンスたるや自画自賛。








かつて戦争は戦争をする人のものだった。
噛み砕いて言うならば、人殺しは人殺しをする人のものだった。人を殺すには相手を上回る膂力か、恒久的殺意執念に基づく周到な準備が必要であった。特別な何かが必要だったのである。人間は簡単に死ぬ弱くか細い生き物であるが、簡単には死なないように出来ており、それを殺すとなると容易なことではなかったのである。しかし、そのような時代は終わった。戦争は変わった。

戦争は戦争をする人のものではなくなったのである。
その変化は、道具によってもたらされた。銃という道具によって。




銃器が人殺しにもたらした影響は明らかである。
銃とは、相手を上回る膂力も、恒久的殺意執念も持たない人間が簡単に人殺しを行える道具である。拳で殴り殺すよりは手斧という道具で殴り殺す方が簡単であるように、手刀で刺し殺すよりも刀剣という道具を用いて刺し殺す方が簡単であるように、その道具は人殺しに関わる全ての要素を簡略化した。

即ち、ただ引き金を引くという動作だけで人を殺せるそれは、誰でも、手軽に、簡単に、という使い手に優しい完璧に優れた道具なのである。銃は正しく人殺しを変えたのだ。世界中で起こる殺人事件の何割が銃によって引き起こされたものであるかを見れば全ては明白である。




道具は何のためにあるか。
それは、複雑な事柄を簡略化する為である。

簡略化する事によって人は本来要していた時間を節約できるし、必要であった労力も軽減される。そして、本来あったフィードバックも受け取らずに済むようになる。銃は返り血を浴びることなく人を殺す事を可能とし、フードプロッセサーという道具は涙せずにタマネギを切り刻むことを可能とする。道具とは人間を変える存在であり、道具を手にした人間はいやがおうにも変わってしまうのである。




道具は人間の生活をどのように変化させるのか、という点については個々のケースにおいてそれぞれ違う。全てに共通する確かな事は、あらゆる道具は間違いなく人を豊かにするという事実だけだ。道具は時間の節約を可能とし、これまで出来なかったことを成し遂げさせ、それまでに存在していなかった快楽を簡単に得られるようになる。しかし、それは道具によってもたらされる変化の全てではない。

道具は人間の生活を変えるだけではないのである。
道具は、人を変えるのだ。




まず最も問題なのは、道具は物事を簡略化してしまうという点である。
人間の処理能力というものには限界があり、物事を簡略化して要する時間が減れば減るほど、思慮は浅くなり考慮は失われる。連歌のようであった物事への捉え方消費の形は道具によって、山と言われれば機械的に川と続けて返すが如くに色香も風情も無くなり消える。

それに加えてあらゆる行動に伴っていた労力苦労反動力押し応えというものが失われるが為に人は際限なく加速して、千と連なる暖簾の下を腕で押し開け駆け抜ける。




一言で言うならば、道具は人間を馬鹿にして、道具は人間を凶暴にする。
道具は道具であるが故に人から人を失わせる。

それは銃だけではない。
あらゆる道具がそうなのだ。
インターネットはその典型である。




人間はマッハの速度でウェブを飛び、ボタン一つで人を撃つ。
バッタバッタと倒れては血みどろの惨劇が繰り返されるが誰もそれに気がつきはしない。あらゆる痛み苦しみは、インターネットのケーブルを通る間に娯楽という形に変換されてモニタに映る。ブログも2ちゃんもSNSも全てがそうだ。人々はその娯楽を享受して酔いしれ、もっともっとと引き金を引く。左クリックが、リターンキーが、唸りを上げて心臓を貫く。


誰が悪いわけでもない。
全ては道具が悪いのだ。
カラシニコフもオッペンハイマーも罪はない。全ての根源は道具にある。





即ち、我々が人間らしさというものを取り戻し再び隣人を愛する事を可能とするためには、この距離というものの存在を失わせた道具であるインターネットというものをまずゴミ箱に放り投げ、さらには全ての道具を捨て去って、衣服も下着も脱ぎ捨てた上で裸と裸で抱き合うべきだ夜明けまで。