2005年10月7日金曜日
リアリティの無い話
もしも僕が相撲で朝青龍に勝った事があると言ったら、あなた方は信じてくれますか?
もしも僕が将棋で羽生善治に勝った事があると言ったら、あなた方は信じてくれますか?
もしも僕がプロレスでレックスルーガーに勝った事があると言ったら、あなた方は信じてくれますか?
もしも僕がバーリトゥードでアレッシャンドリフランカノゲイラに勝った事があると言ったら、もしも僕が南海野村以来30年ぶりのプレイングマネージャーになると言ったら、もしも僕がノーベル賞の候補に挙げられた事があると言ったら、もしも僕が金メダリストだと言ったら、もしも僕がビルゲイツと働いていたと言ったら、あなた方は信じてくれますか?
きっと、信じてくれないでしょう。
なぜならそれらはリアリティの無い話だから。
人間は、リアリティの無い事柄については、写真と名前、言うならば明確なソースが無いと信じられないのです。そして、僕は写真も名前も出していません。僕が何を言っても、あなた方が頭の中に思い描くのは、「自分の人生経験に基づいた、真性引き篭もりhankakueisuu像」でしかありません。そして、それは僕の実像からはかけ離れたものです。
世界は広く、人間の想像力には限界があります。そして、今現在のインターネットには、想像力の限界を越えた素晴らしい人達が大勢ブログを書いているのです。
同時に、あなた方が想像しうる最悪の想定よりも遙かに劣悪な人間もまた、2005年のインターネットの片隅で、ブログを書いているのです。
両者を並べ論じるのはフェアではないと考えられる方もいるでしょう。
例えば、古田敦也や真鍋かをりは自主的にブログを書いているわけではなく、ブログサービスから頼まれて、対価を貰って書いている、故にそれらの特別な商業ブロガーと、そうでないブロガーとを並べて語るのは卑怯であると感じる人もいるかもしれません。しかしそれは間違いです。例えば古田敦也が野球選手として大成せず、なんの取り柄もない平凡なネット中毒者(39歳・男)であったならば、インターネッターからちやほやされたいという自己顕示欲のみでくだらないブログを書き続けていたことでしょう。強者には強者の、弱者には弱者の理由があり、それぞれ細部は違っておれど、何かしらの動機によりブログを書いているという点において全くの同じなのです。
世の中には、上には上がいます。
町で一番の遊撃手が高校ではベンチを温め、市で一番の投手はドラフトに掛かりません。上の中の、その上の中の、そのさらに上の中の人が世の中の表に出ます。そのような人達と、あなた方は日常を共にする事は滅多と無いでしょう。この中に、竜王と食事を共にした事のある人が何人いますか?横綱のいる日常を過ごした事のある人が、チャンピオンと歩いた事のある人が何人いますか?おそらくは、ほとんどいないでしょう。人間の経験、即ち体験というのは世界の大きさに比べれば非常に小さなものであり、大した役には立たないのです。
それと同じように、世の中には下には下がいます。
そして、僕がそれなのです。
僕は世界最小最軽量のアンガールズでもなければ、筋肉の無いなべやかんでもありません。より醜く、より惨めで、より汚らしく、より不愉快に動くものです。出来る限り具体的に言い表すなら、ロズウェルに落ちて捕らえられたチュパカブラスを水木しげるが模写してルーカス率いるILMが3DCGで書き起こしたようなものです。もちろん、実際に目にすればそこまで酷くはないと感じる方もいるかもしれませんが、それよりも酷いと感じる人もいるでしょう。
道行く100人の女性の前に立ち、「どうしてもと言われればどちらを選びますか?」と問いかければ、例え比較相手がイヴァンカンポであっても、江頭2:50であっても、鈴木宗男であっても、西田敏行であっても、たけくまであっても、100-0のフルスコアで勝てる、即ち負ける自信があります。
少なくとも、ネット上でよく笑いものにされている気持ちの悪い男の写真や、不細工な女の写真を見て、自分よりも醜いと感じた事は一度もありません。もちろん、写真うつりによってこれなら勝ってるかも、みたいなちんけな感想を持った事は何度かありますが、同じ条件で撮影されれば対等以上という事になってしまうでしょう。
あらゆるブログ読者は、講読先のブロガーを都合良く美化しすぎです。
まずその点が、まったくもっておかしく思えてなりません。
あともう1つ、何か勘違いしておられる方がいるようです。
僕は別に嫌われる事を恐れているわけではありません。
その逆です。好かれる事だけを恐れているのです。
あるいは、好きになる事を恐れているのです。
人間が人を真に好きになったならば、相手を幸せにしたいと思うのが当然の事です。
その為に最大限の努力をする事こそが真摯で誠実な姿勢であり愛というものです。
そして、僕はその能力、即ち相手を幸せにする能力を持ち合わせていません。
相手を幸せにする能力を持ち合わせていない人間が、相手を幸せにしたいと思った時、どうするべきなのか。それに対する答えは単純にして明快、1つしかありません。即ち、嫌われるように努力する事であり、相手が幸せにする能力を持ち合わせている人の元へと向かうように仕向ける事です。
別に目新しい事は何一つ言っていません。今までも何度か述べてきた通りです。自分は外見もそうですが、内面的にも、あるいは社会的にもそうです。ご存じの通り自分は中学すら出ていませんし、無職です。貯金もありませんし体力も無く、肉体的にもいくつかの問題を抱えています。また筆盲で、日本語も喋れません。言葉の1つも言えませんし、友人も1人もいません。私には負の側面以外、何もありません。そのような自分と比較すれば、他のどのような酷いように思える人でも遙かにましなものです。
自分は人様の人生に損害を加える気は無いのです。期待値以下の人間である自分自身を誰かと関わらせる気はまったく無いのです。より良い結果、より大きな見返りを求めて生きることこそが、人間の正しい生き方なのです。誰の人生も、決して慈善事業などではないのです。
つまり、「会っても嫌わない」という論法はその点において全くの見当はずれです。僕は会っても嫌われないであろう相手と会おうとは思いません。会いさえすれ確実に嫌われると解っていた相手だから、会いに行こうとしていたに過ぎません。
あいにく、あるいは幸いにして、なんとも思っていません。
はっきり言って、まったくの無関心です。故に、今現在の自分の中では大した負担にも、大きな問題にもなっておりませんが、仮に同じように、あるいは幾分かでも好きになったならば、自分は出来る限りのことをするでしょう。他に術が無いと考えるに至れば、ブログを削除して全てを捨てて名も捨てて、完全に消え去るでしょう。正直、もうあのようなものは懲り懲りなのです。少なくとも、自分は今のまま、即ち彼女を好きであるという状態を維持してさえいれば、これ以上の苦痛を味わうことはありません。真摯に生きたいと思っているのと同じくらい、痛めつけられたくはないと考えています。もう、今の自分にとって他者である特定個人に対する誠実さというものは費やしたくはないコストなのです。
ということで、未だにメールを送ってくる人なんかもいたりするわけですが、はっきり言って嫌がらせとしか思っていませんし、迷惑以外の何ものでもありません。嫌がらせをし続けたいならどうぞご勝手に続けてください、という事で。
仮に僕が誰かを愛し、尚かつ愛されるという状況が成立するとすれば、それは齢100歳を越えて、お互いに先の無い、人生の期待値、即ち可能性の存在しない状況になればそれもあるかな、といった所です。というわけで何らかを期待したいのならば、80年間自由に生きた上でそれから、というのが唯一でしょう。しかしながら、80年後には自分は間違いなく死んでいるでしょうし、このブログも存在していないでしょう。仮にまだアクティブであった所で、他に好きな人がいると門前払いにするかもしれません。即ち、結局のところ、僕のような人間が真摯に生きるということは、そういうことではないのか、と思っています。
自分の人生は確たるものです。
まあ、一応は嬉しくなかったと言えば嘘になる、という程度のところで。