2005年10月25日火曜日

一番大事な事



良いことは良いこと、正しいことは正しいこと。
まず、そのような先入観を捨て去るべきである。






世の中は多種多様である。
人々はそれを忘れている。


良いことにも、色々な良いことがある。
良い良いこともあれば、悪い良いこともある。
悪くない良いこともあれば、良くない良いこともある。

正しいことにも、様々な正しいことがある。
正しい正しいこともあれば、間違った正しいこともある。
正しくない正しいこともあれば、間違っていない正しいこともある。






それらと同じように、誠実さもまた様々である。誠実さというものは1つではなく、その焼け野原のように見通し遙か広がった誠実さで埋め尽くされた荒野の両極には、誠実な誠実さと、不誠実な誠実さというものがそびえ立っているのである。

その両極、即ち誠実な誠実さと不誠実な誠実さを分かつものは何かという問いは、僕のような小さな人間には一朝一夕には答えられぬ難問であり、願わくば2月3月、あるいは半年頂きたいくらいの奇問である。

これが例えば「良い嘘と悪い嘘の違いを述べろ」などといった類のものであれば眼球も乾かぬうちに「良い嘘とは嘘だとバレない嘘であり、悪い嘘とは嘘であると悟られる嘘である」と一行にて終わらせてしまえるのだけれど、「誠実な誠実さと不誠実な誠実さの違い」となると前述の通り難しい。

難しいのだが、この投稿を書き始めるに至っているという事はそれ即ち、既に2月3月、あるいは半年が過ぎ去ったという事実を指し示しているものであり、何事もなかったかのようにそしらぬ顔で、いかにも今思いつきましたといった気楽であっさりとした体裁でブログのエントリーに書いてやろうと企んでいる次第である。
内情を自ら暴露してしまっては元も子も大も佐もない。






一言で言うならば、誠実さとは忠義であると僕は思う。

忠義という言葉では、尽くす対象というものが「組織」あるいは「主君」という形で指し示されている。しかし、「誠実さ」という言葉ではその指し示しが行われていない。

即ち、誠実さに多様性があるとすれば、それは尽くす対象の多様性であり、その尽くす対象の違いにより誠実さは、誠実な誠実さと不誠実な誠実さに分類出来るのである。

では、誠実な誠実さが尽くす対象とは何かとなると、それは己の純然たる欲望であると僕は思う。己の欲望に誠実である事こそが、真の誠実さであり、人生に最も必要な要素なのである。

対して、不誠実な誠実さが尽くす対象は己の純然たる欲望以外の要素である。己の欲望に誠実であり続けるには、大変な気力体力精神力が必要となる。そこで人々は誠実な誠実さを保持する事から逃げるのである。それを世では諦めといい、あるいは妥協と呼ぶ。それは正しく不誠実そのものである。






結局の所、人は己の幸せを真に誠実に願えなくなった時点でおしまいなのだ。おそらくはそれこそが一番大事な事であり、とどのつまり僕は不誠実の極みなのである。

知ったこっちゃない。