2005年10月3日月曜日

どうして食べ物を粗末にしてはいけないのかが、まったくもってわからない。




前回のブログにたいして気になるコメントがあったので、今回はちょっとそれについて書こうかな。


とっても下らない話ではあるけど、俺はよく食べ物を残す。
多分これからも沢山の物を残していくと思うのね。
例えば、ファミレスでハンバーグが食べたい。
だけど、その脇にはグラッセやらグリーンピースやらもう色々俺の嫌いな物が並ぶ。
でもハンバーグは食べたい。
当然頼んでもそれらは残す。


今回もロースを食べたい。
でもカルビも食べたい。
タン塩も食べたい。
色々頼んだ。
その結果、自分で頼んだ物なのに残した。
スタッフがそれを食べてくれた。
最終的に残ったのはサラダが少々。
でも残したのは確か。


これを、ホワイトバンドを身に付けてる人だからと言う理由で不快に感じる人がいる。理由は「ホワイトバンドを付ける=貧困を救いたい人なのに残した=食べ残しゼロ」と繋がるらしい。



ここは日本なのか?
いや、いや、いや。
我が国を破壊しようとするロシアの秘密組織の陰謀か何かではないのかとすら思えてしまう。到底理解の及ばぬ所だ。これは、もういいや。













僕にとって唯一のものがあるとすれば、それは食べ物を粗末にするという事である。




例えば誰かが突然に、「神に祈りました」と言いだしても、別に何も変わらない。
人間生きていれば苦しい日や、辛い日、あるいは退屈な日もあろうからして、神に祈りたくなる事だってあるというのは理解の出来る所である、それくらいでその人の全てまでを否定したりはしない。


例えば誰かが突然に、「賭け事をしました」と言いだしても、別に何も変わらない。
人間生きていれば苦しい日や、辛い日、あるいは退屈な日もあろうからして、賭け事をしたくなる事だってあるというのは理解の出来る所である、それくらいでその人の全てまでを否定したりはしない。


例えば誰かが突然に、「酒を飲みました」と言いだしても、別に何も変わらない。
人間生きていれば苦しい日や、辛い日、あるいは退屈な日もあろうからして、酒を飲みたくなる事だってあるというのは理解の出来る所である、それくらいでその人の全てまでを否定したりはしない。


例えば誰かが突然に、「人を殺しました」と言いだしても、別に何も変わらない。
人間生きていれば苦しい日や、辛い日、あるいは退屈な日もあろうからして、人を殺したくなる事だってあるというのは理解の出来る所である、それくらいでその人の全てまでを否定したりはしない。




けれども「食べ物を粗末にしました」と言ったなら、例えそれがeulだろうがABAだろうがpixelだろうがitaだろうが堀井雄二だろうがシドマイヤーだろうが、全人格を含む全てのものを完全に、なんの躊躇も葛藤もなく否定する自信がある。自信がある、というよりも間違いなくやるだろう。


それどころか、こしらえたばかりのみそ汁を笑いながら流しにぶちまけるような真似を今、目の前で何者かが行ったならば、例えそれがマルセロガッシアであっても撲殺出来る自信がある。自信がある、というよりも間違いなくやるだろう。


つまり、フリーザを倒すのにクリリンは必要ないのである。一汁一菜あればよいのだ。







それは僕にとって当たり前の事である。


ところが、「当たり前だろ」というのは非常に危険な主張である。危険即ちデンジャラスであるからして、それから逃れる為にその訳をきちんと活字化しようと5時間ほど悩み続けているのだけれど、まったく手がかりすら掴めない。


正直、ギブアップであり諦めた。




「どうして食べ物を粗末にしてはいけないのか?」
と問われても、「当たり前のこと」以上の説明は見つかりそうにない。
自分の中にこれ程までに曖昧な規範が存在しているという事実に驚いている。
実に、困った。誰か教えてくれ。アルルでも籾殻でもなんでもいいから、教えてくれ。










仕方がないので、少しだけぐだぐだ書いて終わりにして適当に切り上げようと思う。


自分は非常に食が細い人間であったから、よく放課後まで給食を食べていた。
けれども一度も食べ物を残した事などなかったし、それが当然であると考えていた。
いや、考えていたのではない。
当然のことなのだ。


今現在の話で言うと、自分は一日1.5食くらいの割合で食事をとっているのだけれど、これが2~3日何も食べないでいると、体が明らかにおかしくなり、普段通りではなくなる。「食べないと」という強烈な欲求だけが脳みその中を満たすのである。それは実に奇妙な感覚で、真性引き篭もりだから食事もろくに確保できないという原因を責めたり、自らの危機管理の無さを責めたりという事は一切なく、また他の苦しみや悩みといったものも全てが消え去り、ただ「食べないと」という純然たる感情だけが揺るぎなく、脳の中を満たすのである。真性引き篭もりになってからそういう事が、連休や盆暮れ正月を中心に度々あったが故に、「食べ物を粗末にしてはいけない」という絶対律は以前にも増して強固なものになっている。本当に、当たり前としか説明のしようがない。


あと、記憶にある所で言うと、卵焼きを作る際に、器の洗剤をゆすぎ忘れて卵を割り入れてしまった事がある。それは酷い味、というよりも洗剤の味しかしなかったわけだけれど、きちんと全部平らげた。なぜならば、それは当たり前の事だったからである。たとえ青酸カリが入っていようと、リシンが入っていようと、それが食べ物であるならば迷わず食べるし、食べるのが当然の事柄である。


少しおかしいような気はするが、これは全然おかしくない。当たり前なのである。説明しろと言われてもこれは無理である。理解が出来ない奴は頭がおかしいのである。いや、まあ本当に言語化するのは不可能なのだけれど、事実そうなのだから仕方がない。













だらだらやっていてもきりがないので、無理矢理にまとめに入る。





「人間は1人では生きてはいけない」
などとしたり顔で言う輩がいるが、そいつは単なる嘘つきである。


人間は1人で生きてゆけるのである。
食べ物さえあれば生きられるのである。


1人で出来ぬのは、せいぜい子を産む事くらいである。
決して、1人では生きてゆけぬわけではないのである。




即ち、仮に人間というものが存在するならば、それは物を食べるということである。
よって、僕は食べ物を粗末にするような輩を人間であるとは認められぬのである。


いや、全然言っている意味が自分でもよくわからない。
よくわからないのであるが、当然のことなのである。