神に求められる資質は1つである。
それは、説明責任を果たさぬ事だ。
神は喋ってはならないし、疑問に答えてはならない。無論のこと、選挙にも朝まで生テレビにも出てはならない。一切の問題に対し一切の答えを出さず、説明責任を回避し続ける事だけが求められるのである。
即ち、神とは責任を回避する為の道具であり、対話を拒否するシステムであり、思考停止の正当化である。人と神との間で責任をたらい回しにしたあげく、一時預かりという形で全てを放棄し、都合のよい時、即ち説明が為されなくても自分自身で答えが出せる機会が訪れた際にその問題を手元に引き出し感謝する、という現実逃避である。故に神は現実であってはならないのである。
そして同時に、神は人間の否定そのものである。
人間とは何であるかというと、それは巨大な脳である。
人は進化の果てに巨大なる脳を手に入れたのであり、それこそが人間の正体である。優れた脳が感じ取る全ての感情、喜び、悲しみ、怒り、苦しみ、絶望、あるいは希望、その全てを、原寸大で感じ取る事こそが、人の正しい生き方であり、人間にのみ許された極限の人間なのである。受容可能な感情のうちの都合のよい特定部のみを肥大させ、恐怖、恐れ、不安、苦痛といった都合の悪い部位を隠蔽する事は人間の否定に他ならない。
即ち、神に祈る事が人間なのではない。
神に祈りたくなるほどの苦痛を感じ取る事こそが人間であり、その苦痛から逃げ逃れる事無く全てを受け止め、闘い立ち向かう事こそがあるべき人の姿なのである。