2006年9月7日木曜日
日本の何処かに、あなたを待っている人はいますか?
黄色い看板の借金取りが、タダより高いネトゲの群れが、軍艦マーチのパチンコ屋さんが、派遣会社のスタッフが、当たりくじ入りの牛丼やさんが、しゃがんだ海兵隊員が、アフィアドセンスで満たされた、糞ゴミブログのブロガーが、今日もあなたを待ってます。
そのように言うと、彼は言う。
「それは違う。」と、彼は言う。
そのような者供が待っているのは"わたし"ではなく、現金であり、孤独を抱えたインターネット中毒者であり、人生の貴重な時間を浪費するだけの豪快さであり、搾取可能な労働力であり、禁輸解除であり、ザンギエフであり、馴れ合いであると彼は言う。
そのように、彼は言う。
「彼らが待っているのは、決して、わたしではないのだ。だから違う。」と、彼は言う。
けったいな話である、と僕は思う。
まったくもって、理解が出来ない。
確かにそれらは、紛れもなく"あなた"を待っていると書き記して、間違いが無い。
日本の何処か知らない街の、知らない場所の片隅で、彼ら厳密に彼、彼の人は、今日もあなたを必要とし、待ち望み、あなたの登場を渇望し、自ら己の人生と、あなたの人生とが接点を持ち、交わり、交差し、互いに何かを与え合い、それぞれに何らかの利益を手に入れ、時として何れかが不利益を被ったとしても、それでも、なお、あなたの存在を必要とし、であるからこそ、今日も、何処かであなたを待っているのである。
しかし、それら「あなたを待ち望んでいる人々」の存在は「わたしを待っているのではない」という彼の主張の元では、「あなたを待っている」の枠外に位置する、らしい。
曰く、私が、その存在を信じるとともに疑っているのは、そのような者供ではなく、わたしを必要とし、待ち望み、わたしの登場を渇望し、自ら己の人生と、わたしの人生とが接点を持ち、交わり、交差し、互いに何かを与え合い、それぞれに何らかの利益を手に入れ、時として何れかが不利益を被ったとしても、それでも、なお、わたしの存在を必要としてくれるような、そういう人が、本当に、日本の何処かにいるかどうかなのだ。そう彼は言って、深く細く、肩を落とした。
例えば、彼の言う、所謂無条件にあなたを待っている人というものが日本の何処かにいるとするならば、彼も同じように、所謂無条件に、まだ見ぬ何者かを待たねばならぬはずである。そして、無条件にその全てを受け入れられたいと願うのならば、同じく無条件に受け入れねばならぬ。
それが、不可能であるならば、即ち"あなたを待っている事"以外の何らかの付加価値を求めるならば、それに見合うだけの"待っている事"以外の何かを手に入れ、然る後、待つなり行くなりするべきなのだろう。
願わくば、願わくば。
願わくば現金、孤独を抱えたインターネット中毒者、人生の貴重な時間を浪費するだけの豪快さ、搾取可能な労働力、禁輸解除、ザンギエフ、それら以外の、全てのものを。馴れ合い以外の全てのものを。日本の何処かに僕を待っている人なんていなくても、せめてブログを持っている人ならいるのではないかという幻想以外の全てのものを。ブログを、ブログを、全てのものを。
僕は、僕を、待っている。
ずっと、ずっと、もうずっと。