英知の結晶



人々が英知を持って現実を変化させ続けた末に辿り着いた光り輝く未来の果てに生まれて生きているということは1つの幸運であると人は言う。米も洗わず炊ける冬、洗車も洗濯も全自動。これが幸運でなくて何であるかと、世の人々はそのように言う。確かに僕も、そのように思う。

例えば僕が今日今この時を生きていなかったのならば、googleやamazonが生まれ飛ぶ姿も、インターネットをブログが闊歩する様も、空飛ぶ鉄の塊が摩天楼に降り注ぐ様子にも出会えなかったわけである。例えば、100万年前に生まれていたとしたならば、朝起きて、昼が来て、月が宵闇照らし出す。以下エンドレス繰り返しである。

平凡な日常というのが延々続き、そして死ぬ。googleも無ければ、amazonも無い。googleやamazonの有る無しなどはどうでもよいが、diablo2も無ければ、WC3Lもダンジョンクロウルも存在しないというのは絶えがたい。僕が愛する幾つかの、ごく限られたブログもない。もしもそういう世界だったなら、この世に生を受ける意味など無いと、今日この時の僕は思う。そんな生活想像も出来ない。そんな世界で生きてゆけるか?と問われれば「無理だ」と即ち答えるだろう。

しかし、そう思うからこそ、もしも僕が100万年前に生まれていたならば、僕はどのように生き、どのように死んでいったのだろうかと想像してみたくなる事が、たまにある。例えば今日だ。たまにあるのだけれど、そのささやかな妄想は生まれてすぐに頓挫する。例えば今だ。生まれてしばらくして大きな手術があって、おまえの命はそういうものだと散々にして聞かされて来たからである。挫折、である。屈辱、である。絶望、である。

つまり僕は過去の無数の賢人たちが昼夜を削って積み重ねてきた荘厳にして巨大なる果てしない石造りの砂山の上でブログを書いているのであり、僕がどれだけ懸命に、その全てを費やして根性の二文字を胸に意地張り頑張り生きたところで、それら人々の手により造られた土台という呪縛から逃れることは決っして出来ない。いや、それは土台などではない。僕が今在る場所は処刑台そのものである。全ては僕ではない人々によって仕組まれ作り上げられたものだ。許しがたい。絶えがたい。僕は生き行きつづける限り、あるいは死んで尚、その支配下から逃れる事は出来ぬのだ。まったくもって絶えがたい。

もしも可能であるならば、僕は自らの手で自らの設計図を書き、自らの手で自らの肉体を作り上げ、自らの手で自らの魂の草案を書き起こし、それを練り上げ完成させた上で、自らの手で作り上げた肉体に魂入したい。

そうして、自らが、自らであると高らかに宣言したい。
磐石の基盤を元に、自らが自らである事を誇りたい。
自らこそが自らであるとの確信を持って生きたい。

しかしそれらは決して成らない。
事実そうではないからだ。

ならば、僕はいったい、何である事を宣言し、何である事を誇ればよいのか。憎い。僕が憎い。僕の全てが憎い。僕の全ては僕の手の及ばぬところで何者かによって作り上げられたものなのだ。たとえば、こんな些細なエントリーさえも。