2006年10月19日木曜日

コメント欄に対するコメントとか

hankakueisuuさん、どうも。
「きっとあなたのような人間が翻訳をして記事を書いたのでしょうね。」とコメントをつけた者です。この時は無名でしたので、今回はCDと名のる事にします。
どうして私がこのようなコメントをつけたかの説明を正直にする事にします。
最初にですが、私はakisayaという名の人が、どのような人なのか全く知りませんでした。akisayaさんが真面目にブログを書いている人という事も全く知らず、そのような事は全く認識せずに、私はakisayaさんに対してコメントをつけました。
コメントをつけた理由は、akisayaさんのコメントに違和感を覚えたからです。akisayaさんのコメ ントを読んで私が感じたのは、分かりやすい文章で、構成が整っていて、hankakueisuuさんの書いた記事をしっかりと読まれている、それなのにど うしてこのようなトンチンカンな内容のコメントをするのだろうかといったものでした。
そうして、最初はakisayaさんのコメントに対して、一つ一つ指摘しようとも考えました。でも、それより も、一言で的を射たコメントができればそれでいいなという気持ちが強くなり、その時は何となくですがそのakisayaさんのコメントにも苛立ちを感じて いて、あのような相手を馬鹿にするようなコメントを私は残す事に決めたのです。
「ブロガーの側を装って他人を馬鹿にする」とhankakueisuuさんは仰られていますが、私はブロガー であるhankakueisuuさんの側またはhankakueisuuさんを装って、あのようなコメントをつけようという意図はなく、今思えば、 akisayaさんのコメントにただ苛立ちを覚えて、コメントを残す事に決めたのだと思っています。結果的に「ブロガーの側を装って他人を馬鹿にする」よ うに映ったのであれば、私は軽率であったのかもしれません。
今回のhankakueisuuさんの記事に対してですが、私が無名であったからといって、私に対して「虻」 であるとか「滅多刺し」であるとか、それは少し言い過ぎではないかと私としても少し不愉快な気分にさせられました。また、hankakueisuuさんと akisayaさんの二人の関係はよく知りませんが、akisayaさんに対してhankakueisuuさんが浴びせかける言葉も、私以上に馬鹿にした 見下した対話性のない言葉ではないかと思われます。
けれど、そのような汚い言葉も、hankakueisuuさんが使うと、毒のない誠実な綺麗な言葉だと私は感じますが、私に対して今回hankakueisuuさんが書いた記事は、先ほども言いましたが不愉快で、少なからず恐怖心も覚えました。
私はこれからも「真性引き篭もり」を読んでいくつもりです。コメントをつける時はこれからはCDという名でコメントをつける事にします。今回の件について、私はakisayaさんとhankakueisuuさんに対して失礼なコメントをしてしまったと感じています。
commented by CD posted at 2006-10-18 01:08:45
ブロガーにとって、ブロガーの側を装って他人を馬鹿にするコメンテーターほど、迷惑かつ不愉快なものはない。についていたコメントである。しんどい。











まず僕は元記事である「ライブドアニュースの見るに耐えないでたらめ翻訳」にて、その記事を書いたライブドアニュースの記者を名指しした上で、それ をでたらめであると書いた。具体的に馬鹿とは書いていないし、事実として「馬鹿だ」とは言っていないのだけれど、大筋で見れば、馬鹿だと書いたのとそう変 わりは無いと自覚している。
つまり、「きっとあなたのような人間が翻訳をして記事を書いたのでしょうね。」というコメントは「お前は馬鹿だ。」というコメント以外の何物でもない。
しかしながら、それについては大した関心は無い。つまり「お前は馬鹿だ。」と誰かが誰かに対して言った事に対しては、別段の思いは無い。

確かに、僕とakisayaの間には幾つかの共通点がある。例えば、akisayaと僕は同じくらい空気が読めないし、akisayaと僕は同じく らいにトンチンカンなことを言うし、akisayaと僕は同じくらいに往生際が悪いし、akisayaと僕は同じくらいに見苦しい。他にも幾つかの共通項 のようなものがある。故に、僕はakisayaに対して多少のシンパシーや畏敬の念を持っている。これは事実だ。
しかし、僕は対象がakisayaであったが故に滅多刺しにしたいという強い持続的な衝動を抱き、それをブログに書いたのではない。

まず、初めに、匿名で、書き捨てで、「馬鹿だ」と一言書かれる事が、どれほどまでに理不尽で、対象者にとって不愉快であるかについて全力を持って書きたい。
「馬鹿だ」と書かれる事については、仕方が無いと思っている。世の中誰でも、馬鹿である。例えば、今ここで「現代イギリスの医療事情が抱える問題点 と我が国が見習うべき点について全力で語れ」とお題を出され、それに応じねばならない羽目に陥ってしまったならば、僕はまったくの馬鹿を天下に晒す事にな るだろう。純度100%完全無欠のトンチンカンな投稿を行う事になるだろう。もちろん、その投稿を行うに際し、本人はそれをトンチンカンなどとは微塵も 思っておらず、「GJマイセルフ」とか、「googleを10時間も這いずり回った僕は偉い。もはや偉人の領域だ」とか「僕はやっぱいい事言うなぁ。しか もうまいと来たもんだ。」とか思っているのである。
その僕が書き上げたエントリーを、イギリスの現代医療に詳しい人が目にしたならば、「この主張は馬鹿げている」と思うのは当然のことである。「なに トンチンカンな事を言っているのだ」と苛立ちを覚えるのは当然のことである。「くだらないデマ風説を流布しやがって」と怒りを覚えるのは当然のことであ る。
即ち、そのような局面を目にした人は、「馬鹿だ」と書いてかまわないのである。それこそが正直さであり、正しいものを正しいという、間違ったものを間違っていると言う、という形の自浄作用であり、インターネットに効する行為なのである。

しかし、注意せねばならぬことがある。
「馬鹿だ」と書くのは簡単すぎるという点である。
「馬鹿だ」と書くだけなら、誰でも何時でも一瞬で出来る。そして、この世界は、他者を不愉快にさせるという目的だけの為に「馬鹿だ」と言う輩、書く輩で満ち溢れている。
即ち、誰かを名指しで「馬鹿だ」と書く場合は、それら他者を不愉快にして自己満足を得るという目的だけの為の「馬鹿だ」と区別可能な形で、しっかりと「馬鹿だ」と書かねばならぬのである。

そうでないこと、つまり「他者に不快感を与えて自己満足を得る為の馬鹿だ」ではないことを証明するには、普通、膨大な労力が必要となる。論拠を述べ て、なぜ故に対象者が馬鹿であるかを書き、その問題の全てを指摘し、整理した上で、「間違いを犯した」とか「認識不足」といった領域を越え、もはや「馬 鹿」と呼ぶしかない。と断った上で、「馬鹿だ」と言わねばならない。
ところが、そんな「馬鹿だ」は滅多と無い。

akisayaのコメントに対して間髪入れずに付けられた、「きっとあなたのような人間が翻訳をして記事を書いたのでしょうね。」というコメントは、どの角度から見ても、対象者即ちakisayaを不愉快にさせる為だけにつけられたコメント以外の何物でもない。
しかしながら、僕が滅多刺しにしたいという強い持続的な衝動を抱き、それをブログに書いたのは、「馬鹿だ」と書かれていたからではない。さすがに僕もそこまで子供ではない。

では、何故、そのように書くに至ったかというと、まず第一にそれは、その「馬鹿だ」が、僕のブログのコメント欄で、僕以外の人間に対してつけられたものだからである。
ブログのコメント欄は誰のものか、というとそれはブロガーのものである。ここで言う「ブロガーのもの」とは、ブロガーが自由に出来るもの、という意味ではない。ブロガーに管理責任が生じる場であるという意味である。
ブロガーが自らのブログのコメント欄に対して知らぬ存ぜぬを貫くというのは、新聞社が記者の不祥事に際して「個人がやった事ですので」と知らぬ存ぜ ぬを貫くのに等しい。「どの程度までか」という点については僕自身もはっきりと固まってはいないのだが、少なくとも、本来は、最低限度の管理の責任という ものが伴うのである。
ところが、僕はその最低限度の管理責任を果たしているブロガーというものを目にしたことがほとんど無い。1度、あるいは2度くらいは見たことがあるのだが、皆無に等しい。それだけならば、まだよい。
「自らのブログのコメント欄の管理を放棄し、一切触れることもしません」という指針を持って運用しているのならば、まだそれは良い。
ところが、世の中の多くの人はそうではない。
自らのブログのコメント欄を、管理している人が多数である。

しかし、問題は、その管理の指針、基準、方法である。
それら、自らのブログのコメント欄をしっかりと管理している人達は、「自らに不利益なコメント」や「自らが不愉快なコメント」に対して、排除行為を行う。 「自らに不都合なコメント」を削除して回るのだ。しかも、彼らはその上で、自らに不利益なコメントをつけた人間のIPからのアクセスを遮断したり、自らに 不都合なコメントをつけた人間のIPからのコメントを不可能にしたり、自らに不利益が生じるキーワードをBANしたり、あるいは認証式にして自らが不愉快 に感じるコメントを拒否したり、という行動にでる。
藤代裕之も、山本一郎も、finalventも、松岡美樹も、きっこもそうである。自らが不愉快なコメントを、自らに不都合なコメントを、自らに不利益をもたらすコメントを排除し、削除し、禁止し、管理している。そいう例は、無数にある。

ところが、「他者に不利益なコメント」や「他者に不快感を与えるコメント」に対して、対抗措置を打ち出しているブロガーは、極めて少ない。皆無であ ると書いても差し支えの無いくらいに少ない。それどころか、意図的に「他者に不利益なコメント」や「他者に不快感を与えるコメント」を育て、はぐくみ、自 身に都合のよいように、都合のよいようにと、誘導を試み、誘導している人間が少なくない。
それは非常に悪い事態である。つまり、2006年のブログのコメント欄の幾らかは、既存のメディアや団体が行い続けているような、「自らに都合の悪 い声を消し去り無き物として扱う」という、極めてファシズム的な手法を踏襲し、まるで鏡のようにその姿を写し、まったくの同じ事をやっているのである。
そして、無論の事、既存のメディアや団体のように、自らのことは棚に上げながら、言論じみた様々な行動を、ブログの内で、あるいは外で、行い続けているのである。

はっきり言って、これが、僕は不愉快でならない。無論のこと、自分はブロガーであるからして、その心情が全くにわからぬわけではない。それ以前に人 間であるからして、その心情が理解できないわけではない。不愉快なものは排除したい、不都合なものは消し去りたい、不利益をもたらすものは出来る限り人の 目に触れさせたくないという感情は、人として、当然のものである。
しかし、まったくもってそれは愚である。愚かである。万死に値する愚行である。そういう輩は1億2000万年前から滅び去り死ぬべきである。

即ち、つまり、何が言いたいかというと、僕は自らのブログのコメント欄で自らに対して「馬鹿だ」と書かれる事に関しては、死ね死ねと思ったり、こいつ滅多刺しにしてやろうかなどと殺意を抱いたりこそすれど、それをブログに書いたりはしない。
僕のブログのコメント欄は僕の場である。糞の足しにもならないような匿名の書き捨てコメンテーターが他の誰かに対して「馬鹿だ」と書き捨てる場所で はない。それをやりたいなら自分の場所で自己責任でやれ。その表明として、明確な意思として、激昂として、滅多刺しにしたいという持続的な衝動が消えぬと 正直に書いたのである。

次に、当人が至って真面目に書いている文章に対してつけられる、糞の足しにもならないような匿名書き捨てのコメンテーターの「馬鹿だ」コメントの理不尽について、幾らか書きたい。
はっきり言って、この類の不愉快さは、健気にインターネットを書いている人間にしか解らぬと思う。文章というものは一朝一夕に成るものではない。1 時間、2時間、1年、2年と長い時間を経て成るものである。そのような、やっとこさ成った文章に対してつけられる、匿名書き捨てのコメンテーターの「馬鹿 だ」は、至れり極まる理不尽である。不愉快である。これは「そう思っている」のではなく、「そのような光景を見る度にそう思う」のである。







最初にですが、私はakisayaという名の人が、どのような人なのか全く知りませんでした。akisayaさんが真面目にブログを書いている人という事も全く知らず、そのような事は全く認識せずに、私はakisayaさんに対してコメントをつけました。
それは関係ない。そのような問題ではない。
(僕は実名/匿名/無名で人をほどんと分けない。ここで言う問題はそこではなく、 akisayaのそれが往生際が悪すぎる上に空気読めなさすぎているとはいえ至って真面目な対話主張を目的としてつけられたコメントであるのに対して、後 者は特定個人を不愉快にさせる為だけに書かれた胸糞の悪いコメントであるということ)
とはっきり書いている。
そうして、最初はakisayaさんのコメントに対して、一つ一つ指摘しようとも考えました。
知らない。
今回のhankakueisuuさんの記事に対してですが、私が無名であったからといって、私に対して「虻」であるとか「滅多刺し」であるとか、それは少し言い過ぎではないかと私としても少し不愉快な気分にさせられました。
「不愉快な気分にさせられた」と言われても、自分でも、このようなことを書くのは酷いのではないかとは思いはするのだけれど、正直なところ「ああそうですかざまあみろ」とか、「死ね死ね」といった感想しか抱かない。

話は変わるのだけれど、たかがハンドルネームを入れたくらいで群集が個人になれると思っては大間違いである。世の中、ハンドルネームというものは星の数ほどあり、それだけで個が成立するというのは考えが甘い。
では、群集の中の1人にすぎない無名の何物かが個人になりたいと思ったならばどうすればよいかというと、それは基本的には真面目にブログを書き続けるしかないと僕は思っている。
もしも政治家やら、有名なスポーツ選手であったならば、ブログなど真面目に書かずとも、証明の伴う記名さえ行えば、それで済む。その瞬間から個人として成り立つ。しかし、そういう例は稀だろう。

そうでない状態であるならば、即ち、他の群集と自らとを識別することが自分自身以外には不可能な状態であるならば、いくら記名しようとも、本名を名乗ろうとも、それは群集である。群集の声である。
無論のこと、群集である限り人として扱われないとか、対話が成立しない、などと言うつもりはない。第一、僕は、群集であることを重要視していない(僕は実名/匿名/無名で人をほどんと分けない)ので、これについては僕の側ではどうでもいい。
ただ、群集であるということは、群集扱いされるということである。他の群集とまとめて1つとされるということである。そうされない、という事は稀である。極めて稀である。それがあるとすれば、よっぽどの過疎地くらいのものである。
同じく、ブロガーであるということは、きっこや、かをりんや、アフィリエイトや、鬼嫁日記や、嫌韓ブログや、といったものと、一つであるということである。それが極めて緩いまとまりであったとしても、そういうものだと僕は思っている。

最後になってしまったけれど、ブログで「滅多刺し」などといった事を書く事について、自分なりに考えたものを少し書いておく。
ブログで死ねとか滅多刺しにしたいとか書く事は、モラルの崩壊であるように思える。常識を欠いているように思える。はっきり言って、まともではないように自分でも思う。
しかし、ならば「滅多刺しにしたい」と純粋に、心の底からそう思い、それを書くに値すると判断したとき、書いても構わないという領域に達したとき、どうすればいいのか、という事について、非常に悩んだ。今も悩んでいると言っても過言ではない。
日本語に長けた世の人であれば、「滅多刺しにしたい衝動」という文章を「強い遺憾の意を覚えた」などと、器用に置き換えて、ブログに書けるのかもし れない。けれども、あいにく、僕はそのような技量を持ち合わせていない。「滅多刺しにしたい」という文章は「滅多刺しにしたい」にしかならぬのである。
では、それを免罪符に、即ち日本語力の欠如を言い分けとして、「滅多刺し」などとブログに書いていいか、となるとこれもわからない。どちらかとして、ありえないように思える。卑怯な言い訳、言い逃れの類に思える。
しかし、だからと言って、言い換え不能な「滅多刺し」を押し殺し、抹消するというのは、ブロガーとして正しい在り方なのかどうか、という点が非常に引っかかる。
もしも「"滅多刺し"、"死ね"、"馬鹿"という単語、ニュアンス、それら一切を使用せずにブログを一年間毎日更新し続けなさい。」という題目が あったとする。はっきり言って、それくらい、楽にこなせる自信がある。そういった単語、そういったエントリーというものを、一切用いずにブログを書きつづ けるくらい、僕にとっては簡単な事である。
けれども、だからといって、そのようなブログが正しいブログであるとは、どうも思えないのである。そして、同時に、前述の通り、いわゆる滅多刺しが書かれたブログが正しいブログであるとも、思えないのである。
では、どうすればいいか、という点についてはわからない。少なくとも、僕はこれまでに、それらいわゆる滅多刺しエントリーを書く際に気を遣っていた のは、まず第一に「自らが個人として全てのリスクを背負う」という事であり、出来る限り、火の粉というものが、自らに降りかかるような形を試みていたつも りである。
第二に、運動量である。常人の100倍の労力、100倍の時間、100倍の気合というものを持って、それらに挑んできたつもりである。けれども、こ れは、言い訳の域、免罪符の域、自己満足の域を出ない場合が多い。なぜならば、その100倍という比較は、対象の個人(相手ブロガー)との比較ではなく、 他の滅多刺しとの比較に過ぎないのである。さらに言えば、それが対象者の100倍であったとしても、免罪符以上の価値は無いだろう。
つまり、結論から言ってしまえば、僕には改めるべき必要がある点が存在するように思える。少なくとも、今日今真夜中の段階では、改めるべき必要があるように思える。生憎今は朝だけれど、だいたい同じように考えている。
これまで、散々、死ねとか書いてきたことに対して、反省などまったくしていないし、悔いてもいないのだけれど、これから先に関しては、人としてブロガーとして、死ねなどとは書かないようにする必要があるという結論に達したので、そうする事に決めたのである。
結局のところ、色々と思い残すことはあるのだけれどこれからは、死ねと思っても死ねなどとは書かないし、滅多刺しにしてやりたいと思っても滅多刺し にするなどとは書かない。それらは胸のうちにとどめておくべきであり、ブログに書くならば、かなりの無理をしてでも、他の平坦な言葉に変換した上で、書く 事にする。誓いである。