2006年10月20日金曜日

今生だ!来世だ!いや、真性引き篭もりhankakueisuuだ!



悲しいときは悲しくなる。苦しいときは苦しくなる。辛いときは辛くなる。怒りたいときは怒ってしまうし、悔しいときは唇を噛む。泣きたいときは泣いてしまうし、笑いたいときは笑ってしまう。感情が素直に機能している自分は、平凡だけど素敵だなと思う。これだけ非常識な生活を続けているにも関わらず、自分自身の人間っぽさに、少し安心したりする。よかった、僕は、まだ人だって。

でも、僕には、人間であり続けることのメリットが見当たらない。おいしいご飯も、あったかいお風呂も、ポカポカふとんも見当たらない。いっそ人間じゃなくなればいいのにと毎晩のように考える。ときどき強く、ときどき弱く。笑って吹き飛ばしてしまえる日もあれば、そんなにうまくは行かない日もある。そんな日は、他の生き物に生まれてきたら良かったのになと、考え自分を見失う。例えば、もしも僕がブログペットに生まれてきたら、物凄かったと思う。オンリーワンじゃなくてナンバーワンのブログペットになれたと思う。けれども僕は人なので、ナンバーワンにもオンリーワンにもなれやしない。悲しく思う。残念に思う。

けれども、そんな日の夜はまだ幸せだ。悲しくなって悲しんだり、苦しくなって苦しんだり、そういった日は幸せだ。まだ、自らの体の中のぬくもりを、どこかで感じられるから。生きているんだなあとわかるから。

悪いのは、そういった類を突き抜けて、何も感じられなくなる時だ。悔しいのか、悲しいのか、苦しいのか、辛いのかさえわからずに、笑うことも怒ることもできず、不機嫌にもなれず、ニコニコもニヤニヤも出来ず、ガクガクと震える。全身の筋肉に力が入り、体全体が萎縮して、それに押されて、心が、気持ちが、人間の全てが物凄い勢いで萎縮していき、小さくなって、がくがく震えて倒れこむ。

これはいけない、なんとかせねば、なんとかせねばと漠然と焦り、「そうだ、苦しいときや辛いとき、何も考えられなくなった時は何かに一心不乱に打ち込めばいいのだ。」と思いたつ。なんとかして、目を閉じる気力も無いままで横たわり大きく震えているだけの状態から抜け出したい、逃げ出したい、楽になりたい、幸せになりたい、毎日笑顔で暮らしたい。

よし、ならば、打ち込むぞ。何かに打ち込むぞ、と高校球児的な逃避の思考だけが、僕の人間的なもののなかで、唯一正常に働いている。「おお、まだ僕は人間だ」などと一瞬油断すると、首の後ろを硬直させた筋肉がドュンズンの頭痛を運んできて頭痛薬2つぶ、耐えられなくなりまた2つぶ、5分を待てずにまた2つぶ。

それも少しは落ち着いたので、「打ち込もう」「打ち込もう」と念仏のように唱える。これって何かに似ているな、と思って賢明に探す。なんだったっけと思い出す。すぐに見つかる。ああ、なんだ。「修行するぞ」「修行するぞ」か。ぁぁぁ、ぁぁぁと廃人のように息を吐く。

仕方が無いので打ち込めることを探す。必死で探す。懸命に探す。ゲームはもう無い。ブログしかない。ブログを一心不乱に書きつづければこの状態から脱せられるかもしれないと一瞬希望の光が差す。けれどもそれは残念無念。なぜならそれはもう既に、この頃随分やっている。一心不乱に書いている最中も最中真っ只中だ。うわあ。まいった。袋小路。底の底までを突き抜けてしまった。それでも震えが止まらない。耐えかねて、震えにあわせて「ィ、ィ」と発声してみる。イッィッィッィッィッィッ。まるで、笑っているみたい。けれどもこれでは狂人だ。ああああ、ううう。あああうう。

そうしていると「来世だ来世だ来世だ来世だ、来世だ来世だ来世だ来世だ!来世だ来世だ来世だ来世だ、来世だ来世だ来世だ来世だッ!」と祭囃子が聞こえてくる。嫌な祭りだ。もうろくだ。ぽっかり空いた心の穴を来世の声が埋めてゆく。うわあ、勘弁、もうだめだ。

そうして震える間にも、僕は強くて逞しいから、いつか、この真っ白な気分から、立ち直ってしまうのだろうという絶望感があらゆる思考を遮断する。もう、この状態から抜け出して、ポジティブな気分に切り替わる際に訪れる、悲しさや、苦しさや、辛さといったネガティブなものに耐え切るだけの体力がない。

そんなものに向き合うくらいなら、もうこのまま沈んでた方がよいと思って震えて落ちる。いや、ダメだ。なんとかせねば。元気な僕を取り戻さねば。まずは体力、その次気力。取り戻すためには休養だ。休養が足りていないから、こんなにボロボロ滅茶苦茶なんだと強引に、凍った瞼を押し下げて、眠った瞬間般若の女が現れ夢精。痛みで目が覚めぐったり憔悴。休養も糞もあったもんじゃない。僕の涙は枯れ果てたけど、僕のちんこは泣いている。