梅田望夫を信じるな。梅田望夫を疑え。梅田望夫を罵れ。梅田望夫の荒を探し全身全霊を持って叩け。



自らの主張を浸透させるには、その内容と対象を選別し、遮蔽に遮蔽を重ねて、その範囲を可能な限り狭めた上で、その極限まで小さく絞り狭めた偏狭的な範囲の中で最大限に大風呂敷を広げるに限る。常識である。少なくとも僕の中では遥か彼方の昔からブロガーとして生きる中でこの身で知り渡えた常識である。




主張というものを、本当の意味で万民に浸透させ、その等身大の姿を、偽り無く伝えるには、莫大な労力が必要となる。伝えようとすればする程に、考証が行われ、反論が行われ、主張はあらゆる角度から丸裸にされ、攻撃される。聞く耳持たぬ無関心がセガなんてだっせえよなと周囲を巻き込み、私達には関係の無い事だと笑い、周囲の潜在的主張の支持者達をも巻き込んで、彼方へと連れ去ってしまう。

その範囲対象を暗黙のうちに切り捨て制限し遮蔽せねば、100億人100億色全人類という巨大な底なしの多様性プールに全てのものが飲み込まれ、1足す1の答えが2すら、通らずその声はかき消されてしまうのである。

巨人も、柏戸も、玉子焼きも、全ては過ぎ去った古き良き時代の産物である。万民が声を持たず、徒党を組む術を持たず、結び繋がれる事なく、まとまる事なく存在していた時代の産物である。

それらが終わり過ぎ去った時代の典型として、自らの主張を浸透させる為に、強引に押し通すために、言うならば信徒を獲得するが為に、反論の余地が無くなるまでにその内容と対象を選別し、その主張を理解しようとしない人間を「わたしたちとは別の生き物」として隔離見下せる域にまで遮蔽に遮蔽を重ね内容と対象を選別するというテクニックが、世の中にまかり通っている。

1人に1を伝えて100%の支持を得るよりも、100人に100を伝えて1%の支持を得る方が難しいのである。その為の遮蔽である。99と99を存在しないものとして扱い、その残る僅かな1の中の1の中で最大限の大風呂敷を広げるという、全く持って小手先の卑怯さこそが、自らの主張を盲目的に浸透させるために必要なテクニックなのである。





例えば僕が今ここで、"欧州の今"ことロシアの冷たく輝く息吹、mouz.GeIL.Happyの素晴らしさと偉大さを主張し押し通そうとしたならば、その目論見は用意に達成されるだろう。地球上全人類の人という人が僕の主張の前にひれ伏すだろう。何人も、それに異議を唱える事は出来ないだろう。誰一人として僕に歯向かう事は出来ないだろう。

けれども僕は決してそのような事をしたりはしない。

何故ならば、mouz.GeIL.Happyの素晴らしさや偉大さを称える事に、なんの価値も見出せないからである。そんな事には、何の意味も無いと考えるからである。なぜならば、僕が今仮に、ここでそれを行ったならば、世界が受け取るのはmouz.GeIL.Happyの素晴らしさではなく、mouz.GeIL.Happyについて熱く美しく生き生きと語る事の出来る僕の凄さ素晴らしさであるからだ。

つまり、仮に今ここで僕がmouz.GeIL.Happyの素晴らしさを延々に称えたならば、それはmouz.GeIL.Happyの素晴らしさを称え伝えたいからではなく、mouz.GeIL.Happyの素晴らしさを称える事の出来る僕自身の素晴らしさを称え伝えたいからに他ならぬのである。




そんな悪趣味な事は僕はやらない。まず第一に、あいにくそのような気分ではない。自らの素晴らしさを称え伝えたい気分ではない。そしで第二に、そんな事は嫌いだ。大嫌いだ。何者かの素晴らしさを称え、賞賛し、如何に偉大であるかを書き綴るなどという悪趣味な事は命尽き果てても決してやらない。嫌いだからだ。大嫌いだからだ。

そして第三に、僕は「称えられた側の人間」がどのような感情を抱くかを知っているからだ。「賞賛された側の人間」がどのような感情を抱くかを知っているからだ。「褒められた側の人間」がどのような感情を抱くかを知っているからだ。悪い気はしないのだ。
そう、「悪い気はしない」のである。




そんな風に回っていく世界はうんざりごめんだ。お互いの良い所を褒め称え、お互いの良い所を見、お互いに決して触れられたくない箇所には決して触れず、暗黙のruleの中で、申し訳程度に当たり障りのないように責め、お互いの良い所を褒め称え、お互いの良い所を見、お互いに決して触れられたくない箇所には決して触れず、全てが丸く治まり、本音はなく、それどころか嘘すらなく、軽薄な好感の交換のみで円滑に進んでいく人と人との関係などというものは、うんざりごめんのである。笑顔と笑顔で回る世界などうんざりごめんなのである。

ネガティブな感情が真実や本当の姿を押し殺しかき消してしまう事以上に、好都合な他人は本当の自分を完膚なきまでに破壊してしまう。乗せられ、おだてられ、乗せ返し、おだてかえし、ぼんやりとした春の柔らかな日差しの中で本物の心は死ぬのだ。沈黙し、やがて死に、その死にカスすらいずれ消え去るのだ。

そう。
そうなのである。
誰かを褒め称え、その素晴らしさを賞賛する事は、自らを褒め称え、自らの素晴らしさを賞賛する事に他ならない。「自分で自分を褒める」というのは極めて困難な作居だ。何故ならば、地球上全人類の人々は、自らの汚さや自らの醜さについて、他の誰よりも詳しく知っているからだ。

誰にだって思い出したくない過去があるし、誰にだって思い出したくない汚点がある。消してしまいたい過去があり、消してしまいたい記憶がある。それら、己の汚点というものを、第三者即ち世界から無かったものとして扱ってもらう為に、彼らは第三者即ち世界の汚点から目をそらし、美しさだけを摘み出して、褒め称えるのである。即ち彼らは第三者を褒めているのではなく、第三者を用いて自らを褒めているのである。道具として利用しているのである。松坂大輔を褒めるふりをして、梅田望夫を称えるふりをして、スティーブジョブスを賛美するを装って、ただ自らを褒め称え、美化しているのである。

汚らわしいことに。
まったくもって汚らわしいことに。
故に即ち、僕は決してmouz.GeIL.Happyを褒め称えたりはせぬのである。




逆に仮に僕が今ここで、何者かの醜悪さを罵り、忌み嫌い、罵倒したならばそれは一体何であるだろうか。一体それは何であろうか。

例えば仮に僕が今ここで、全くの無関係である何者か、例えば1日2万PVの人気ブロガーの醜悪さを心から全力で憎み忌み嫌いその薄汚さを完全なまでに罵ったならばそれは何であろうか。そう、YES。

それは自らの悪に対する憎しみであり、自らの汚さに対する罵りであり、自らに対する真のメッセージに他ならない。世界の汚さから目をそらさないという事は、世界の汚さを許さず、放置せず、スルーしないという事は、自ずから、自らの汚さ醜さを許さず放置せず決して忘れず、見過ごさず、それを汚さとして認め、それを憎み、その醜さ汚さを全否定するものに他ならないのである。

僕という人間は、醜さも、汚さも、邪さも臆病さも、それら全てを包括しているからこそ僕自身なのであり、例えば僕が自らの醜さ汚さ邪さ臆病さといった所謂ネガティブさを全て完全に忘れ去り存在しないものとして扱い生きたとしたならば、それはもはや僕自身とは呼べぬ代物なのである。

同じように、全ての地上に存在する全てものは、醜さも、汚さも、邪さも臆病さも、それら全てのものを含めて世界なのであり、それら、あらゆる汚点を見過ごし、忘れ、素晴らしさのみに視線を向けて、美しき世を美しく生きるなどは、言語道断の所業なのである。

もしも僕がこの地球上に存在する全ての汚点から目をそらし、それら全てを存在せぬものとして扱ったならば、世界もまた同じように僕の汚点から目をそらし、存在せぬものとして扱ってくれるだろう。

それが都合が良いものである事は確かだ。それが居心地の良い生き良い世界であるのは紛れも無い事実である。けれども、そのようなものを僕は決して受け入れはしないのである。

汚さを汚さとして、醜さを醜さとして扱い、全身全霊を注ぎ込み全てを尽くしてその汚さ醜さを語らねば、美しさがが美しさとして全身全霊を注ぎ込み死力を尽くして認められる日は来ないのである。




即ち、人間というものは、ブロガーというものは、テクニックとして、技法として、道具として他人を褒め、他人を賞賛し、他人を称え、他人を愛する生き物であるという事を、我々は知り肝に銘じておくべきである。エントリーの裏に巧妙に隠された真意を見抜くリテラシーというものを持つべきなのである。ブロガーなる生き物は皆が皆大本営発表を繰り返すだけの卑怯者に過ぎぬという事をしっかりと前もって記憶しておくべきなのである。




例えば、仮に「人を褒めろ」とブログにて公言する人間がいたならば、それは「俺を褒めろ」と言っている事に他ならない。

例えば、もし仮に「人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。」とブログにて公言する人間がいたならば、それは「私の粗探しをしないでください」と言っている事に他ならない。




思い出してみるが良い。

そういった類の人々が、本当の、全身全霊を注ぎ込んだ全力の非難に対し、真意に向き合い、人として、一人の人間として、まともに対処した事が、たった一度でも在ったかどうかを。

そして気がつくべきである。そういった類の人々が、正真正銘本物の、全身全霊を注ぎ込んだ全力の非難をあざ笑い、くだらないものとして無視し続けてきたという歴史が指し示す紛れも無き事実に。

奴らは何時だって自分に都合のいいブログのみを取り上げ、自分に都合のいい批判のみに応え、自分に都合のよい声ばかりを選別してきたではないか。




彼らは、褒めと褒めとのネットワーク、即ち身内との馴れ合いに逃げ込み、他人を褒め、同僚を褒め、部下を褒め、同じ社内の人間を褒め、仕事で付き合いのある人間を褒め、そしてその対価として、褒めたポジティブな評価の対価として褒めポジティブな評価を受け取り、自らの権威を高め、自らをひな壇へと祭り上げ、「このような高い場所にいる私はそんな低い場所にいる人たちの粗探しに真っ当に答える義務などない」と他人を評価し褒め称える事によって作り上げた権威を用いて自らへの非難を存在せぬも同然のものとして扱い、他人を評価し褒め称える事によって作り上げた権威を用いて暴利を貪るのである。




例えば、もしも仮に「己を信じろ」とブログにて公言する人間がいたならば、それは「俺を信じろ」と言っている事に他ならない。

悪いところを探すな、汚点から目をそらせ、矛盾を突くな、と。
奴らはそのように言うのである。まるで他人事のように。

金の為に。
権威の為に。
私利私欲の為に。
まるで他人事のように。

















人は誰しもが皆、よい人生を送りたいと思う。
苦悩から遠く離れ、健やかな日常を過ごしたいと思うのである。
素晴らしさを称えられたいと思うし、美しさを褒められたいと思うものなのである。

それは当たり前の事なのである。
しかし、その当たり前の事を、間違った風に理解している人間が幾らか存在しているのが2007年の桜舞い散る極寒の春でありこれは由々しき事態である。

例えば、あなたがどこかで誰かに、その日つけていた香水の匂いを称えられ、褒められたとする。その際に、それを自ら己に対する賞賛であると受け止めては、決していけないのである。

それは、ただ単純に、香水の匂いが称えられ、褒められただけに過ぎないのである。幾らか譲歩し歩み寄ったとしても、その香水を身に着ける事の出切るだけの優雅な身分や、その香りを選択したセンスを褒められたにすぎず、人そのものを褒められたのでは決して無いのである。

ところが、世の人は、そういった、表層のたまり醤油とはかけ離れた賞賛の声に耳を貸し、心奪われ、思わず笑みをもらし、幸福感に浸り、満足満悦ご満悦を謳歌してしまっているのである。

これは間違いである。誤りである。
敗北であり、死そのものである




そのようなくだらない賞賛は、賞賛などではない。そのようなくだらない賛美は、賛美などではない。それらは、偽意である。偽者であり、偽りの世界である。真意とは、全ての汚点を汚点として扱い、全ての欠点を欠点として扱い、全ての醜さを醜さとして全力で非難し、全ての卑怯さを罵倒し、罵り、たったの1つ蟻一匹も見逃すこと無く糾弾し、否定し尽くした上で、その上で、素晴らしさを素晴らしさとして扱い称え、美しさを美しさとして扱い賛じた後に、前者の否定的な評価と後者の肯定的な評価を包括した上で、一心「好きだ」を貫き貫かれる事こそが、我々人類にとって真の救いであり、たどり着くべき境地であり、掴み取るべき未来なのである。





故に、僕は、そういった類の人々、即ち安易に人を褒める人、安易に人に褒めろと言う人々を、全身全霊を持って否定し、非難し、臆病ものとして罵るのである。そう、「人の粗探しをするな」と宣う人は、粗探しをされたくないという一念に基づきそう言う卑怯者であり、「人を褒めろ」と宣う人は、人に嫌われたくないといだけの臆病者である。このサバイバルたる混沌のインターネットに耐え切れず、惨めに震え、馴れ合いのネットワークに逃げ込み、ぬくぬくと生きたいだけのCHICKENなのである。それどころか、そう素直に言う事すら出来ず、ありとあらゆる手を用い、狡猾に、悪質に、それを成し遂げようとする、純然たる悪なのである。

僕はそのような臆病者ではない。卑怯者ではない。故に、僕は決して何者かを賞賛するエントリーなどというものを書いたりはしないし、決して前向きでポジティブなエントリーなどというものを書いたりはしないのである。ブログにて他人を褒めるブロガーなどというものは褒められたいだけの安い人間であり、ブログにて他人を称えるブロガーなどというものは、他人から称えられたいだけの安い偽者の偽りの評するに値しない腐った奴らなのでる。
















思い出してみようではないか。

ブロガーと呼ばれる人達がマスコミについて、どのように評してきたかを。ブロガーと呼ばれる人たちが、マスコミについて、即ちわが国を覆う汚染された既得権益者達を、どのように罵ってきたかを。そして、梅田望夫が何と言ったのかを。




「マスコミには自浄作用が無い。」
思い出すべきである。

「マスコミは身内に都合の悪い事を報じない。」
その台詞を。その糾弾を。その嘲笑を。




そして今、ブロガーでもないのにブロガーを騙るわが国のインターネットにおける最大にして最悪の老害既得権益者たる梅田望夫が何と言ったかを。

奴は、のたまうたのだ。
こう、のたまうたのだ。

「褒めろ、粗探しをするな」と。








世界は等しい。
均等であり、均一である。
猫も、鰯も、秋刀魚も象も、同じように腐る。
違って見える物でも全て、全くにして同じに腐る。

誰がそうさせるのか。
権益者がそうさせるのである。
隠蔽し、遮蔽し、誤魔化し、腐らせるのだ。

テレビによって暴利を貪った人達がテレビを腐らせたように。
新聞によって暴利を貪った人達が新聞を腐らせたように。
政治によって暴利を貪った人たちが政治を腐らせたように。

地球上に存在する全てのものと、地球上に存在しない全てのものが、そういった人々の手に堕ち、貪られ、食い尽くされ、見るも無残に腐らされて行ったのである。その魔の手が今ブログに及んでいるのである。即ち。ブログによって暴利を貪る輩がそれを腐らせようとしているのだ。懸命に、自らの既得権益を守りぬく為にのたまうたのだ。奴は、のたまうたのだ。こう、のたまうたのだ。「褒めろ、粗探しをするな」と。