2007年4月12日木曜日

何が人を電通叩きへと駆り立て、何が人を電通叩きへと駆り立てるのか。



人生とは、歩みである。
人は生まれたその瞬間から、どこかに向かって歩き続ける。

ある時は迷い立ち止まり、ある時は疲れて座り込む。道無き道を進むには、尋常ならざる体力と精神力が必要となるし、ローマに繋がる幾億の道は人を迷いに導いて、堕落へ繋がる不本意ロードが、望む行く手を埋没させる。




結果として、多くの人が本意ではない道を行く。
希望の未来を手に入れられず、夢の一つも叶えられず。
積もり積もった不平不満が、「悪者探し」に駆り立てる。








「道を遮る何者かが存在する」
そのような妄想に堕ちてゆく。

「道を遮る何者かが存在する」
故に、失望怒りに値する現実があるという妄想に。




それは、逃げである。
現実逃避である。

失われた道を阻んだのは他ならぬ自分自身であるという、現実からの逃避である。
容易には受け入れがたい現実からの、苦しく辛い現実からの、逃避である。




群がる人また人の波という、今やありふれた光景となってしまったインターネットの風物詩を見る度に、恨み、憎しみ、といった類の負の感情の普遍性と、またそれらの感情が如何に人を愚かに、そして盲目にさせるか、という事を再確認させられる。
















楽に生きる為の最も楽な道。
それは、敵の作成である。

敵を持って生きていくのは楽である。
事実、多くの人は、敵を持たずには生きていけないくらいに弱い。

何者かが私を妨げている。
何者かが我々を妨げている。
半世紀前のハリウッドでは、火星人やソビエト連邦がその役割を担っていた。




ソビエト連邦は優れた敵であった。
同じくらいに、火星人もまた優れた敵であった。

人は「いつか私自身がソ連になるかもしれない」という恐怖を抱く事なく純粋にソビエト連邦を敵として扱う事が出来た。火星人も同じである。「いつか私が火星人になるかもしれない」なんて気にかけながら宇宙戦争を観ていた人なんていなかった。




ソビエト連邦は、ある点では火星人より優れており、ある点では劣っていた。

ソ連には「自分自身がソビエト連邦に生まれていた可能性」という弱点があった。
類稀なる想像力を持つ人は、スクリーンの中のソ連を純粋悪敵としては見れなかった。

一方、火星人にはその心配は無かった。「自分自身が火星人に生まれていた可能性」なんてものを思い浮かべる人達はいなかったからだ。類稀なる想像力を持つ人は往々にして賢明であり、懸命な人は火星人なんていないって事くらい知っていたからだ。

その点、即ち「自分自身が敵そのものになってしまう可能性/なってしまっていた可能性」という点で、火星人はソ連よりも優れた、素晴らしく理想的な「敵」だった。




けれども、火星人という「敵」にだって、弱点があった。




「リアリティ」である。

火星人は完璧な悪役であり、見事な敵であったが、
誰一人として実際に火星人の息吹を感じた者はいなかった。

火星人は敵としては、あまりにも現実感が無かった。「米国が秘密を握って隠しているんだ」なんて言う人もいたけれど、そりゃあ、もう、うさんくさくて、酷いもんだった。




その点、ソ連は完璧だった。
ソ連には大統領がいて、書記長がいて、テレビがそれを映し出した。ミサイルがあって、潜水艦があって、100万人の兵士が居た。ミサイルどころか存在そのものが無い火星人を恐れたり憎んだりするのはかなり困難な事だったけれど、ソ連を憎み恨み恐れ怯え、あらゆる悪の枢軸として思い込むのは簡単な事だった。

「世界の悪の原因は全てソ連のせいだ!」って具合に。








ところが生憎運悪い事に、21世紀を迎えた人は、1つの不幸に遭遇した。

ソ連はいない。
ナチスもいない。
火星人なんて居やしない。

他の敵を探し始めた。
ソ連のようにリアリティがある敵を。
火星人のように「自分自身が成り得ない」敵を。

インターネットを、彷徨って。














例えば、電通。

電通とは何か。

超一流企業だ。

理想の、敵だ。




電通は、なぜ、敵として優れているのか。
それは、リアリティだ。
電通は火星人のようなものではない。
実際に存在していて、我々のすぐ近くに居る。
今の日本の人民にとっての電通は大変身近な存在なのだ。
あの頃のキューバを挟んだソビエトのように。いや、それ以上に。

そして、「自分自身が成り得ない」という点でも電通は完璧である。
データが指し示すように金持ちはネットサーフィンなどしない。ネットサーフィンは世界から取り残された貧者の娯楽なのである。ニュースサイトやはてなブックマークも同じように貧者の娯楽である。電通叩きに群がった彼らの中に、即ち電通叩きに涎垂らして群がったインターネッターの中に「電通社員に成りえる可能性」なんてものが存在している人が一体どれだけいるだろうか。


いない。
一人としていない。
あるいはそれに等しい。


彼らは貧民であり、貧困層であり、知的弱者である。
学歴社会就職戦争という1つのレースの敗者、いやそれどころか努力する事すら投げ出して逃げ出した完全な臆病者である。彼らが電通社員になる可能性なんて物心ついた時にはもう既にゼロパーセントだったし、これから先も永遠に0%である。故に彼らは心置きなく電通を純然たる敵として扱う事が出来るのである。





電通だけではない。
2007年のインターネットに存在する他の敵にしても同じである。



「女」
「韓国人」
「中国人」
「全国紙の記者」
「TV局の社員」
そして電通。

どれも、彼らインターネッターが今後決して成りえる事の無い存在である。
彼らは男であるからして、女には成り得ないし、女に好かれる可能性も無い。
彼らは日本人であるからして、韓国人や中国人には決して成り得ない。
彼らは全国紙の記者にも、TV局や電通社の社員にもなれない。
それどころか正社員にすらなれないような落ちこぼれである。

そのような人達が、自分自身を隠蔽してくれるウェブサイト、自分自身について考える時間を潰してくれるウェブサイトに入り浸っているのである。即ちたとえばそれは2ちゃんねるやかとゆー家の断絶やはてなブックマーク(あるいはyoutube)といったような、とにかく時間を潰す事の出来るサイトに入り浸り、1つの潮流を作り出しているのである。







即ち、そのような流れの中で、彼らは敵を探す。
何故敵を探さねばならないのか。
それは、言うまでもない。








本当の敵とは何か。

人は、経験でそれを知っている。
人は、本能でそれを知っている。




本当の敵。
それは堕落である。

本当の敵。
それは己の弱さである。



その、己の弱さ、堕落、即ち自分自身の人生心というものと向き合うには、膨大な労力が必要となる。自らの弱き心という巨大で強大な敵に立ち向かう術は唯一つ、努力である。自分自身の可能性を信じ、広い多様な全世界が提供する幾多幾億の堕落という甘い囁きに敢然と立ち向かい、一切耳を貸さず、目を向けず、嫉妬や憧れや慢心に打ち勝ち、負けぬよう、逃げずに戦う事である。



そんなこと、今更僕が書かなくても、みんな知っている。
誰だって、自分の一番の敵は自分自身だって事くらい、知っているのだ。


本当の敵。
それが堕落である事を。

経験から。


本当の敵。
それが己の心の弱さである事を。

本能から。








その、本当の敵を忘れる為に、人は敵を探すのである。
本当の敵、即ち自分の弱さではなく、もっと他の別のものを憎むために。

自らを断罪せぬために。
己からの責め苦から逃れる為に。







故に、彼らは、敵を探し求めて見つけては、群がり殺到するのである。
「なんとまあ恐ろしい!」と囁き叫びたてるのである。

彼らは、自分自身を善良な市民として定義しようとする。
失われた一億層中流社会の中での中流として定義づけようとする。
「一人じゃないんだ」と安心しようとする。みんなで団結し戦おうとする。
その為、即ち自らを善良な中流市民と位置づける為に彼らは、まず「下」を造る。

彼らの定義における「下」は、彼らのインターネットに居ない人々である。
より正確に言うならばそれは「TVを見る人」であり、「新聞を読む人」である。
あるいは、「韓国人」であり、「中国人」である。時としてそれは「犯罪者」である。
彼らから見れば「下」とは即ち、彼らから見て愚かな人達や、彼らから見て馬鹿な人達である。「下」という敵を作り出す事により自らの精神の安定を図り、優越感を得ているのである。




次に彼らは「上」を造る。
彼らの定義における「上」は、自らが決して成り得ない存在である。既存の概念での勝ち組である。即ち、TV、新聞、電通、政治家、といった人達である。それら彼らが住処とするインターネットにおける少数派(あるいは無数派)を巨悪と定めて決める。




つまり、彼らは「彼ら自身が住みかとするインターネットでの多数派」に所属する事で自分自身を巨大化させ、一体感から安心と精神の安定を享受し、その集団に帰属意識を持ち、集団として群れとして「自分達ではない」「自分達が決して成り得ない」敵を捜し求めてインターネットをさ迷い、それら溜まり溜まったうねりの波が、ありとあらゆるブログの場所で暴徒となって地表へと噴き上がるのである。

それら、自らの妄想と思い込みによって作り出された都合の良い敵に群がり殺到するう事によって、彼らは「自分自身の弱さと戦う」逃れると同時に、「戦って勝利したい」という根源的な欲望を満たしているのである。全く戦ってなどいないのにも関わらず。








一方、電通を叩く側の人、というのは少し違う。
彼らは、変質者である。
負け犬である。

この広い世界の全人類の、幾らか少なくない割合の人が「話を聞いてもらいたい」という欲望を持っている。リアル現実の世界では、まともに話を聞いてくれる人もいない。同僚には無視され、呑み友達こそおれど、まともな友人はろくにいない。それでも話を聞いてもらいたい。世の中に存在するそういう根暗な野望を持った人達が、ブログを書いているのである。所謂ブロガーと呼ばれる人達である。

彼らは世間の注目を集める為ならばなんだってする。嘘偽りは日常茶飯事ブログの世界じゃ当たり前だし、権威に媚びたかと思うと権威に歯向かうロンリーオンリーファイターを演じもする。そういう人達が、ただ人の注目を得たいが為だけに、新聞を叩き、TVを叩き、電通を叩いているのである。そして、それに群がる人の群れを見て「俺って凄い」とご満悦、ニヤニヤ笑っているのである。




つまりは、需要と供給である。
事実真実その類、そういった物は問題ではない。
彼らは新聞TV電通を叩く事で「耳讃を得る」という利益を受け取り、
同じく彼らは新聞TV電通叩きに群がる事で「敵を憎む」という利益を受け取る。

それは電通が行う「利益の為の行動」と非常に良く似ている。
唯一の違いがあるとすれば、電通は弛まぬ努力でそれを行っているのに対して、連中はリンクをクリックするだけ、はてなブックマークのaddボタンを押すだけ、妄信的に読み憎むだけの、努力労力苦労苦心を伴わぬ形で「利益の為の行動」を行っている点である。





それはグーグルアドセンスや、アマゾンアソシエイトのちょっとした最適化テクニックを紹介する記事に対する、彼らインターネッターの反応を見ればよくわかる。彼らは電通が企業としての利益の為に積み重ねてきた努力に対しては、それを否定し、敵として定義し、巨悪として認識しているのに対し、自らの利益となる「グーグルアドセンスのちょっとした知識やテクニック」については[やくにたつ]やら[ためになる]などと有り難がり、誰もそれを否定しようとはしない。

自らのブログウェブサイトに、グーグルアドセンスを張っているという事は、グーグルアドセンスの広告の中には反社会的な企業が存在するという事や、明らかに社会悪である企業の広告が存在する事に目を瞑り、またグーグル社の悪しき局面をなあなあ適当にスルーして、自らの利益の為に、他のあらゆるものを踏みにじり、自らの利益の為に目を瞑っている事に他ならない。

グーグルアドセンスを自らのブログウェブサイトに設置する事自体が悪しき行為であるか、という所までは僕には判断しかねるけれども、少なくとも、グーグルアドセンスに表示される広告の中には明らかに反社会的な広告が存在するという事実がある以上、電通叩きに熱を上げるならば同じようにグーグルを叩きに熱を上げねばならぬはずである。




ところが、彼らはそれを行わない。
当たり前である。




彼らは上で述べたように「自らの利益」の為に電通叩きに群がっているのであり、「自らに利益をもたらす可能性のあるグーグル/グーグルアドセンスを叩く訳が無いのである。

故に、電通叩き、マスコミ叩きを行うブロガー達のほとんどは、グーグルを一切非難しない。アマゾンを一切叩かない。何故ならば、彼らのの目的、彼らの利益とはインターネッターの注目を集める事であり、自己顕示欲を満たす事だからである。その為に、彼らはインターネッターの求める「敵」を最適化し、それを造り出して書きたてるのである。

くだんのエントリーにしても、「俺はワルだぜちょっと違うぜ」にはじまり、間髪入れずに「友達自慢」続いて「リアル自慢」へとつなぎ、「恐怖を煽って自らを隠蔽する」という、既視感漂う黄金パターンを踏襲した、実績のある実によく見るパターンである。道具として時事ネタを書き下し用いているに過ぎない、くだらないものである。
















自らが決して成り得ない者達に、「金の為ならなんでもやる連中」というレッテルを張り、それを非難し、否定し、悪の根源として扱い、恐怖を煽り、団結と闘争を訴える。

中身は無い。

残念な事だけれどもそれは、両者に利益を齎すたいへんに有効な手口なのだ。
半世紀以上もの昔の前の、ドイツの過去が指し示すように。