2007年4月14日土曜日

YAHOOみんなの政治の政治ポジションテストの設問が納得できない。



YAHOOみんなの政治の政治ポジションテストの設問が納得できない。
ほとんど全て納得できない。







例えば問い5。

>小中学校の式典での国旗掲揚・国歌斉唱は強制されるべきではない。

素直に「政治(公権力)が」「全ての小中学校の式典に対して」「強制すべきかどうか」という問いであると解釈して回答するならば「どちらでもない」である。

その「どちらでもない」の中身にしても、国旗に関しては「同意する」なのだけれども、国歌に関しては君が代という歌を学童に歌わせる事に意味あるいはなんらかの価値があるとはとてもじゃないけど思えないので、「あまり同意しない」なので、間を取っての「どちらでもない」である。国旗と国歌を併記している時点で「設問が適切ではない」と感じる。



しかし、この問いを教師についての問いと解釈すれば話は全く違う。
「政治(公権力)が」「小中学校の教師に対して」「強制すべきかどうか」という問いであると解釈して回答するならば「同意しない」である。(強制されて然るべき)
時事ネタとして解釈するなら、おそらくこれが正しいのだろうと思う。つまり、教師というのは職業なのだから、職務として定められた事は遂行すべきであり、「君が代を歌いたくない」と言う教師の言い分に僕は今の所まったく正しさのようなものを見出せず、理解を示す事が出来ないので、「同意しない(強制されて然るべき)」なのである。




ところが、これが、生徒に対しての話であれば、また別である。
「政治(公権力)が」「小中学校の生徒に対して」「強制すべきかどうか」という問いであるならば、これは無論の事「強く同意する(強制すべきではない)」である。たかが君が代を歌ったくらいで愛国心がどうたらだとか国を愛する心がどうたら、などというのは馬鹿げた話であり、歌おうが歌うまいが、式典の遂行を妨げないのであればどうでもいい事であり、強制するなどというのはまったくもって馬鹿げているとしか思えない。
故に「同意する」なのである。



>小中学校の式典での国旗掲揚・国歌斉唱は強制されるべきではない。
つまり、僕の場合、この問いには3つの答えが存在するわけである。というか、この問いは3つの問い(あるいは、国旗という3つの問いと国歌という3つの問い、合計6つの問い)にしか読めないのである。であるからして、僕が仮にこの問いに無理やりに答えようとしたならば、このYAHOOみんなの政治の政治ポジションテストは<同意する><やや同意する><どちらでもない><あまり同意しない><まったく同意しない>の5つ以外に選択肢が無いので、仕方なく、やむをえず「どちらでもない」と答えざるを得ないのである。「設問を評価しない」あるいは「設問が不適切」と答えたいにも関わらず。






より酷いのはこれ。

>過激な性表現や暴力表現があっても、ゲームや書籍の検閲や規制を行うべきではない。

「過激なせい表現や暴力表現」はゲームよりも書籍よりも、まず何よりTVであり、続いてインターネットだろう。相応しいのはゲームや書籍ではなく、「TVやインターネットの」だろう。ゲーム人口とインターネット人口(あるいはケイタイ人口)のどちらが多いかくらい、考えずともわかる事である。日本一の巨大サイトでさりげなく「ゲームには過激なせい表現や暴力表現があるもの」などと印象操作か。ゲーマーは都合のよいスケープゴートか。ふざけるなと言いたい。設問という形で踏み絵式にゲームバッシングとは、まったくもってやる事が汚い。




けれどもこの問いの本当の問題はそこよりも、「検閲や規制」という部分である。
この問いを見た瞬間に頭に浮かんだのは「検閲は憲法違反ではないのか」という疑念であり調べたら案の定「日本において検閲は日本国憲法第21条第2項前段において明示的に、そして絶対的に禁止されている。」とwikipediaに書いてあった。

もう、滅茶苦茶である。

「みんなの」だとか「ポジション」だとかファッショナブルな色彩やら今風のインターフェイスやらでほんわかほんわかしておきながら、さりげなく検閲の是非を5択を迫るという横暴である。しかも、「検閲や規制」という形で規制と並び立ててそれを書くという暴挙。「検閲を行うべきか」と「規制を行うべきか」は別次元の問題である。

言うまでも無く、僕がもしも無理からにこの問いに答えるならば検閲に対しては「行うべきではない」であり、規制に関しては「行うべき」なので、検閲の否定という意味で「行うべきではない」と回答するか、妥協して「どちらでもない」と回答するかの2択になってしまう。「設問を評価しない」あるいは「設問が不適切」と答えたいにも関わらずである。




>ワーキングプア(働く貧困層)を政府が経済的に救済するのはおかしい。
あとこれも相当納得がいかない。経済的に救済が何を指すのかがわからない。税制優遇も最低賃金の引き上げも就労幇助も「働く貧困層の経済的救済」であり、そういう事ならば「おかしくない」と思うけれども、経済的援助=現金をばら撒く、という事であれば「おかしい」あるいは「ややおかしい」である。「設問を評価しない」あるいは「設問が不適切」と答えたくて仕方が無い。




他の問いにしても、ほとんど全てに違和感を感じる。
「過疎地では新たな道路建設をすべきではない。」という設問に対する回答は当然「すべきではない」なんだけれど、この問い指す所はおそらく「弱者切捨ての是非」だろう。けれども我が国の道路網はもはや相当なレベルで張り巡らされてしまっており、道路建設イコール弱者切捨てなんて過疎地は皆無である。それこそ、四国沖縄北海道に加えて九州東北のほとんどは今や県ごと丸々過疎地と呼べる段階なのではないのか。そこで「道路建設=弱者切捨て」なんて問いをされても、「一笑に付す」か、無理から設問者の意図を汲み取って答えるかの強制2択でしかない。「設問を評価しない」あるいは「設問が不適切」と答えたいにも関わらずである。




この、設問者の意図を読み取って答えるか、設問がおかしいので仕方なしに<どちらでもない>と答えるしかない、というこの企画の糞さ加減は、極端に中央に寄った結果分布や、設問の意図を裏読みしての端回答を繰り返した結果としての四隅の重さにも如実に現れていると思う。




まあ、このようなヤフーとスポンサーの種本一冊の糞会社である新日本パブリック・アフェアーズの糞商売に真面目に苛立ちを覚えるのが間違い、というのは確かにそうかもしれないけれど、やはりこのように設問という形で印象操作を行い五択を迫る汚さには納得がいかない。

話はこの企画だけでなく、○○チェックという類の奴は全てほぼそうだ。
あの類、この類の何が気に入らないかというと、5つしかない選択肢である。
こういったものをやるならば、5つの選択肢に加えて「わからない」という回答と「設問がおかしい」という回答項を用意すべきだろう。その上で、全ての設問における「設問を評価しない」という項への投票率を表示すれば、まあこういった類の企画の垢も少しは落ちるのではないかと思う。