2007年8月2日木曜日

失望したい人達。



インターネットを彷徨っていると、あちらこちらで、「失望した」という声を耳にする。


けれども、僕には彼らが「望みを失った」敗北者には見えない。
僕の目には、彼らは「望みを叶えた」勝利者に見える。










「彼らは失望したかったのだ」というのが僕の結論である。

「失望した」と発言している人達は、心の底から、あるいは心の奥底で、失望したいと真に望んでいたのだ。そして、彼らはその願いを叶える事に成功したのでる。




何かに向かって「失望した」と言う人は、僕の知る限り、一人残らず自分自身に失望している。その、自らに対する失望という心象は、決して心地よいものではない。目覚めてから目覚めるまでの全ての時間に暗い影を落とし、それらを辛さ、苦しさ、といった暗がりの方へと少しずつ引きずって行く。




その、「際限なく沈み行く気分」から逃れるのに最も効果的なのは、「希望を取り戻す」事である。自らに対する失望を打ち砕き、希望を抱いて明日を目指すことである。

けれども、「自らを希望へと導く」というのは、極めて困難な作業である。積み重ねてきた歳月の、一秒一秒に刻み込まれた失望が、ヘモグロビンの中の中まで染み込んで、希望の種は芽を出す前に、力を奪われ四散する。




そして「希望を取り戻す」というあまりに困難すぎる作業を諦めた彼らが次に目指すのが、「<自らに対する失望>を、<ありふれたもの>だと位置づける」という作業である。

「自らに対する失望なんて、気にするようなことじゃないよ。」「自らに対する失望は、ごくごく普通のことだよ」「自らに対する失望なんて、取るに足らないちいさなことさ。」と、自らに対する失望によって被るダメージを、普遍化させ、「気に病むようなことではない」と位置づけようとするのである。





その為に、彼らはまず、地球上、ありとあらゆるものに希望を託す。

CL圏内ぎりぎりのフットボールチームでもよいし、少し小柄なサラブレッドでもよい。インディーズシーンを飛び出したギター語りのミュージシャンでもよいし、裏ストリームの漫才師でもよい。あるいは、大きすぎない瞳を描く漫画家であったり、新進気鋭のIDOLだったり。

そういった、ちょっとしたものに、いろんな思いとを注ぎ込み、希望の全てを委託するのである。そして、頃合いを見計らって、手のひらを返すのである。

「裏切られた」などと口汚く罵ったり、「期待していたのに」と愚痴を並べたり、「愚かだった」などとふさぎ込んだり、といった具合に十人十色様々に、あの手この手で「失望」を行う。

彼らはそうすることによって、「自らに対する失望」の比重を下げるのである。
ほんの僅かに少しだけ、気楽に過ごせるようになるのである。





けれども、その効果も、そう長くは続かない。「希望」という人間の根幹に関わる感情を費やしてまでやっとこさ、手に入れ掴んだ失望の効果は、あっという間に切れてしまう。そして、彼らは追われるように、次の希望を求めて立ち上がり、一歩、一歩、歩み出す。次の失望を手に入れるために。