2007年8月16日木曜日

精神と肉体とブログの不一致



6月の1日にどうしても書きたいブログや書かねばならないブログが大量に溜まっており、肉体的にも精神的にもブログ的にも書ける見込みがなんとなくたったので、機は熟したブログ再開す、となったのだけれどそこからの惨状は目を覆うばかりで、頭痛や睡眠といった肉体的な調子と、他の事に興味を引かれたり気を煩わせられたりといった精神的な調子と、今しかない、ここぞ、というブログの調子とが全く一致せず、困った、がっかりだ、失望した、といったネガティブな気分がさらに全てを引っ張って、という悪循環が続いた。とはいえ、2月、あるいは3月も書き続ければ頭蓋と臓腑の中の9割を占拠するに至っている是が非でも書きたいブログ群の一部、具体的な数字で言うと5つや6つくらいは書けるだろうと思っていたのだけれどいっこうにその気配がない。おまけに糞つまんない事で萎えまくって滅入ってしまったり、おもむろに体調崩したり、PCの電源が半死半生に陥りmachineという制約が「ちゅうざいか」ではなくて「ちょうざいか」ではない何とかざいかしたり、フジロックのせいでページビューが普段の1/10に落ち込んでへこんだり(うちの読者層はフジロック層とがっつりかぶってるから)でがっかり。

こういう事が続くと、「肉体不要論」とか「精神不要論」みたいなのが出てくる。「頭痛や睡魔や発汗が存在しなければ僕はもっときちんとブログが書けるのに」といった傾向の論。

けれどもそういった「不要と思われる諸々の要素」というのは実は誰も知り得ない所でブログと直に繋がっており、「なくなってしまえばいいのに!」と思うような事は、全て、必要なんだと思う。("ノボトニー手術みたいに"って書こうとしたけれど、100%ノボトニーではないという事がわかっている(イェンス・ノボトニーに引っ張られているのだという事もわかっている。けれどもブログ休止中なので調べて書く気は無い(でもコメントで「それは○○ですね」みたいなのが付くと思うと萎える))

でも、そういった考えを現実のものとして補足してしまうと、「あらゆるネガティヴ要素を必要なものとして正当化してしまう」という荒野に出てしまい、それはそれで困る。「若い時は苦労は買ってでもしろ信仰」、のような。

5日後にはいブログ再開します、ってそんなん半年も一年もかけて投稿ボタンに辿り着けていないブログがポンポン書き上げられますか?ってそりゃあ冷静に現実的に考えれば無理ですよ、といった暗雲がひたすらに重い。別に半年も一年もかけたくてかけているわけじゃなくて、思考能力と脳みそと魂の回転力と日本語化の速度がひたすらに低すぎる、というだけの問題で。

だからこそ、物凄い遅くてもきちんと書き続けて(鉛筆で書き続ける、という意味ではない)いればいつかはきちんと書けるはずなんだけれど。そもそも「きちんと書く」って何なんだろう。もう責任転嫁でいいや、暑いのが悪い。涼しくなれば世界は僕にぞっこんラブ。なんか、まだ普通にブログを書き続けていた方が少しは近づけたんじゃないか、という気がしてならない。