2008年9月19日金曜日
何人をも幸せに出来ないのではないかという恐怖。
人は皆、誰かを幸せにする事が出来る。
人は皆、誰かを喜ばせる事が出来る。
ある一人の人間が他の誰かを幸せにし、その誰かがまた他の誰かを幸せにする。世界はそんな風にして回っている。人間世界というものは、とどのつまり、幸せのネットワークである。
円満な夫婦から生まれた赤子は、ただ「おぎゃー」と泣くだけで、他の誰かを喜ばせる事が出来る。他の誰かを幸せにする事が出来る。赤子というものは、類を見ぬまでの強キャラである。けれども成長するにつれ、人は皆その、天性の力を失ってゆく。
たとえば、今そこで、あなたが泣いたところで、誰が喜ぼうか。たとえば、今ここで、僕が泣いたところで、誰が幸せになろうか。何人も、幸せになどならぬのである。誰一人として、喜んだりはせぬのである。泣いてるだけでは、駄目なのである。では、どうすればよいか。
最も手っ取り早いのが、労働である。労働を行えば、誰かが幸せになる。即ち、労働を行えば、誰かを幸せにする事が出来る。労働を行えば、誰かを喜ばせる事が出来る。
その「誰か」の一番手は、愛する人である。妻であり、子である。あるいは両親であり、それは時として友人である。働けば、働くほど、愛する人は喜んでくれる。愛する人を幸せに出来る。即ち、労働とは喜びの生産装置である。
「誰か」の二番手は、経営者である。時として上司である。たとえ、妻を持たず、子を持たず、天涯孤独の身であれど、労働さえ行えば、他の誰かを喜ばせる事が出来る。即ち、労働とは幸福の生産装置である。優れたシステム。それが労働である。
「誰か」の三番手は自らである。「会社に利益を齎した」という事実と、「他人のために尽くした」という実感、そして手にした俸禄が(たとえそれが僅かなものであっても)、自らに喜びを齎し、自らに幸せを齎すのである。
「外部」である経営者、「身内」である家族、「本人」である自ら。労働とは、その3者を同時に喜ばせる事の出来る優れたシステムである。労働に頼らずに、これを実現するのは、不可能に近い。少なくとも、凡人には不可能である。労働に頼ることなく、外部、身内、本人の3者を喜ばせ、幸せにする事が出来る人間も、居るには居ろう。けれども、それは、皆無に等しい皆無である。
即ち、何が私たちに幸せを齎し、何か私たちに喜びを齎してくるのかを見つめれば、私たちが何を良しとし、何を悪としているのかが見えてくる。人が良し悪しを判別する基準は、ただ一つ、「外部、身内、本人の三者を同時に喜ばせ、幸せにする事が出来るか否か」なのである。外部、身内、本人の、全てに喜びを与する時、その行いは良いものとされる。外部、身内、本人の、何れかが欠けても駄目である。何れか1つでも欠けようものなら、その行いは嫌疑に包まれ、疑いの目に叩かれる。外部、身内、本人の何れかを不幸せにしようものなら、あるいは悲しませようものなら、それは悪とされ、強く、強く、否定される。
三者のうち、一般に、よく欠けるのは外部である。外部の喜びであり、外部の幸せである。盗み、詐欺、ネズミ講、それらの行為は全て、外部の喜びを欠くが故に、そして外部に幸せを齎さないが故に否定される。人里離れた山奥に、グリーンピアを建立する行為もまた、身内と本人に喜びと幸せを齎せど、外部にはそれを齎さないが故に否定され、世の人に拒絶されるのである。
次に欠く事の多いのは、身内である。身内を欠くのは簡単である。喜ばせるべき身内が存在しない場合、それは即ち身内の欠如を意味する。家族が居ない、妻が居ない、夫が居ない、子が居ない。働けど、働けど、幸せにすべき身内がいない。この世にいない人間を喜ばせる事は誰にも出来ない。どう足掻いても無駄である。
身内の欠落が、外部の人間に知られる事は少ない。しかし身内の欠落は、世に知られているよりも遙かに多く存在する。身内の欠落が広く問題とされないのは、それがプライベートなものであり、認識されないが故である。例えば夫が居ても、あるいは妻が居ても、親が、子が居ても、身内の欠落は起こりうる。心と心が途切れれば、肩書きは意味を成さぬのである。しかし肩書きに覆われているが故に、身内の欠落は外部に気づかれにくい。身内の欠落は常に隠蔽され、それ故に重篤化し、人の心を破壊する痛恨の痛手である。
最後に続くのは、本人である。自らを喜ばせる事の出来ない暮らし、自らを幸せにする事の出来ない人生というものは、その存在自体が、この世において、強く、何よりも強く否定される。無くすべき物として定義される。先に述べたとおり、人間社会とは幸せのネットワークである。「人間という生き物は、自ら己を幸せにする為に生きている」、という大前提において設計されているのが人の世である。人と人との世界である。私たちの暮らす世界は、人は皆自ら己を喜ばせる為に生きている、という大前提の元で成立しているものなのである。
この前提が崩れると、生じるものは、ただ破滅である。人間社会の破綻である。他人の物を盗めば、逮捕される。牢獄に入れられる。即ち不幸せになる。普通の人間はそれを嫌がる。それを嫌がるのが人間であるという大前提において成り立っている。これが壊れればどうなるか。自ら己の不幸せを厭わない人間で世の中が満ちあふれればどうなるか。火を見るよりも明らかである。生じる物は、ただ破滅である。人間社会の波状である。
よって、人間社会の一員である、健全闊達な人間は、幸せにすべき対象としての己の欠如こそが、悪の中の悪、至上の悪であると、定め決しているのである。それ故に、自ら己を喜ばせる気の無い人間の存在を拒絶し、自ら己を幸せにする心づもりの無い人間に、強い拒否反応を示すのである。
自ら己を幸せにする心づもりの無い人間が、果たしてどれだけ存在するだろうか。ここでの問いは、「2008年9月19日現在に、どれだけ存在するのか」という問いではない。赤子として、おぎゃーと生まれたその瞬間に、自ら己を幸せにする心づもりを持たない人間が、どれだけ存在するだろうか?という問いである。
此の世に生を受けた瞬間に、自ら己の幸せを望まぬ人間。自らの喜びを望まぬ人間。そんな人は、一人としていないだろう。少なくとも僕はそう思う。赤子として、生まれた瞬間においては、人は自らの喜びを望み、己の幸せを願うものなのである。安らかな生活を、健やかな暮らしを、愛と、喜びに満ちあふれた人生を、誰もが、等しく、望むものなのである。
即ち、「人間とは何ですか?」と問われれば、「自ら己の喜びを望み、自ら己の幸せを願うものである」としか、答えようがない。それ以外に、答は無いのである。そして、自ら己の喜びに向けて、自ら己の幸せに向けて、日々邁進し、少しでも、また少しでもにじり寄ろうと努力し続ける生き物こそが、人間なのである。
ところが、少なからずの人が、自ら己を幸せにする事を諦めている。それどころか、自ら己を喜ばせる事すらも完全に放棄している。自らを幸せにするつもり無しに生きている。そんな人が、大勢存在している。全体の割合から見ればそう多くはないけれど、人数としては、大勢存在している。少なからずの割合で存在している。
なぜ、そのような人々が存在しているのか。それに対する答えは単純にして明確である。私たちが息衝く人間世界そのものが、そのような人々を作り出しているのである。幸せネットワークであるはずの人間社会そのものが、人の、己の幸せを願う気持ちを踏みにじり、自らの喜びを望む心を奪い去っているのである。人間の心を無くした廃人を、生みだして、毎日々々作り出しているのである。
そのような社会には、大きな問題がある。即ち、我々の生きる現在の日本は大きな問題を抱えている。廃人を作り出す社会において、生きるという事は、何を意味するか。それは喜びを意味しない。それは幸せを意味しない。それは、「いつ、誰もが、廃人になってもおかしくはない社会を生きている」という事である。それは、恐怖である。恐怖に怯える暮らしである。
誰もが恐怖に怯え、そうならないように、そうならないようにと、懸命にしがみつき、必死で叫び、よじ登る事を強いられているのが、現代の日本である。人間の世界である。言ってしまえば、私たちが今生きているこの国は、幸せのネットワークなどではなく、緊張と恐怖のネットワークである。怒号飛び交う荒波である。
そのような社会、即ち、「自らを幸せを願う気持ちすら失ってしまうのではないか」、という恐怖に怯えながら暮らさねばならぬ世界で、人は心安らかに暮らせるだろうか?笑顔で、健やかに、日々を生きる事が出来るであろうか?否である。答えは否である。
誰もが「自らの幸せを願う事えぬ人間」へと変わり果ててしまう可能性のある世界。それが、日本である。japanである。いつ、誰もが「何人をも幸せに出来ない層」へと転落してしまわぬとも限らぬ世界。それが、日本である。我が国である。そのような世界において、笑顔は全て偽りである。喜びは全て偽りである。幸せは全て偽りである。外部、身内、本人、その三者を満たせぬならば、それは全て嘘である。ホームレスに送られる視線は、まさしく、その顕著なものである。
なぜホームレスを平気で罵る事の出来る人間、いや、ホームレスを勉めて罵倒しようとする人達が存在するのかというと、第一に、彼らは、ホームレスを人間であると認めたくないのである。「外部、身内、本人」の三者を喜ばせたいと願うのが、人の本分である。その本分に従えば、「明確に幸せではない存在」としてのホームレスは、「存在そのものが許されないもの」なのである。
明確に「外部、身内、本人の全てを幸せに出来ない存在」としてのホームレスは、決して受け入れられないものなのである。存在自体が許されないのである。だからといって、ホームレスを、片っ端から包丁で刺し殺していくわけにも行かない。無論のこと、ホームレスに、片っ端から、人間としての正常な思いを、おぎゃーと生まれたあの日の心を取り戻させる事も出来ない。人間としての喜びと、幸せのある暮らしを提供する事も出来ない。
では、どうするか。どうすればよいか。となった時に、彼らは、ホームレスを、外部のさらに外側、つまり、人間社会の外側におき、「彼らは私たちとは別の生き物である」と定義しようとするのである。別の規範、別の基準において生きている異生物であると定義しようとするのである。そして、言外に、あるいは言内に、ホームレスを強く拒絶し、罵倒し、その存在そのものを、否定しようと試みるのである。
それらの言動を、強く支配しているものは、前述の通り恐怖である。いつ、誰もが、「自らの幸せすら願えない存在」へと転落してしまいかねないという、偽りの幸せネットワークと化した、人と人との繋がりが生み出す喜びの、あるいは幸せの、副作用である。即ち、恐れ、恐怖である。
一方で、ホームレスに肩入れする人々も、動機は全く同じである。彼らを支配しているものもまた、恐怖である。「何人をも幸せに出来ないのではないか」という恐怖である。外部、身内、本人のうち、本人と身内に関しては、あまりにも困難であるが故に、ひとまず諦め、投げだして、簡単に幸せに出来る存在としてのホームレスを、維持しようと、保とうと、恐怖に追われてホームレスに肩入れし、彼らの存在を、懸命にそして頑なに守ろうとしているのである。
人間世界は、即ち我が国というものは、己の幸せを願う心を持って生まれてきた赤子を、そのまま、その心を失わぬまま、人生を最初から、最後まで生きられる世であるべきである。本来ならば、そうあらねばならぬのである。人と人との繋がりというものは、人と人との接点というものは、それ即ち、幸せでなければならない。そうあらねばならないのである。生きるとは喜びであり、生は喜びであるべきなのである。その至極当たり前の事阻害している物があるとすれば、それは悪である。即ち、我々は皆、図らずも、薄汚れた悪なのである。至上の害悪なのである。私たちは、吐却されるべき世界を構築しながら、守り従い生きているのである。恐怖から逃れねばならない。恐怖による支配から抜け出さねばならない。踏みにじられて奪われた、人の心を取り戻さねばならない。