リアルにおけるリアルっぽさ。



秒針のように鳴く虫の音を雨戸越しに聞きながら、電気もつけずにモニタからの光で右手に一本だけだけ浮かんだ血管を眺めていると、「リアルだなあ」と思った。

ここで僕が感じた「リアル」というのは、ゴーストリコンやオペレーションフラッシュポイント的な、「リアル」である。誤解を恐れずに掻い摘んで言えば、『リアルなゲーム』の「リアル」、あるいは『リアル系FPS』の「リアル」である。

モニタからの強いながらも限られた光で照らし出されて浮かび上がった右の手の甲の血管は青く、薄汚れたピンク色をした手の甲との嘘くさいコントラストはまるでさながら地下道をカニ歩きしながらチェーンソーを握る右手のようでそれ故に、「リアルだなあ」と思ったのである。

僕が日々生きる日常において、このような「リアルさ」を感じる事は、あまり無い。とても珍しい事であり、故に、それが強く印象に残った。

たとえば、この空腹による下腹の痛みや、肌に纏わり付く丸三日分の汗の感じ、こめかみと額に突き刺したねじ山の潰れてしまった細長いネジを、無理矢理に回し続けるような類の痛みは、まったく「リアルなもの」ではない。それらはどこまでも「非リアル」である。

つまり、僕が「リアルだなあ」と感じたものの正体は、リアル系FPSにも似た「痛みのない現実性」であり、モニタからの光に照らされた僕の右手甲の血管は、僕に対し、僅か全くの心証も残さず、痛みも伴わず、そして思い出として残る事も、教訓として記憶される事も無いであろうが故に僕はそれを見て「リアルだなあ」と思いこの僕の、細くて長い人生に全角スペースを2つ3っつ書き込んで秋が来たのである。