2008年9月22日月曜日

ブログにおける被糞言及のめんどくささは異常。



それは「良エントリを作ろう症候群」だ
また来たよ。
この類が。
心底うんざりするね。




まさに、これは「良エントリを作ろう症候群」だな。これにハマってる気がする。まるで以前の自分を見ているようだ。
はぁ?てめえは自分語りしたいだけだろ?「以前の自分」って言いたいだけだろ?俺はおまえより進化的です、って言いたいだけだろ?あー、糞うぜえ。なに天才カリスマアルファブロガーの真性引き篭もりhankakueisuu様と自分を同一視してんの?おまえみたいなゴミとは次元が違うんだけど。何絡んできてんの?うざいからmixiでやってろよ。あー、マイミクで書いたら誰も読んでくれないからこうやって糞トラバで糞文章他人に読ませてご満悦ってわけか。おめでたいねー。うざいねー。




きちんと書こうとか上手くまとめようとか考えずに、ただ思ったことのみを書く。
へぇ。思ったことをそのままブログに書けるとは、たいそう高性能な脳みそをお持ちなんですね。で、その高性能な脳みそでどんな事を思われているのかとブログを読ませていただいたのですが、エントリーの二分の一がブログ論(笑)ってそれはそれはたいそう貧相な事しか思っていないんですね。スパコンでソリティアやって楽しい?しかも毎回詰んでて楽しい?1問も解けずに楽しい?いや、楽しいからやってるんでしょうね。はぁ。うぜえ。あー、めんどうだなあ。




だいたい「自分が何を思っているか理解出来る」ってのが凄いよなあ。まあ、実際にそういう人も居るには居ると思う。リアル高性能脳を持つリアルエリートのブログとかを読んでいると、ああ、この人は自分が何を思っているのかを、かなりの精度でリアルタイムに理解しているんだろうなあ、と感じる事もある。けれども、一年中ネットサーフィンをしていても、そういう人は滅多と見かけない。

僕の場合はそれらの真逆で、「自分が何を思っているのか全く理解出来ない」のである。「何かを思っている」という事はわかっている。「思っている事が進展して、次のステップへと進んだ」こともわかっている。「思っている事が連鎖して、他の何かを思い出し、それと関連づけられた」事もわかる。「一定の結論に達した」という事も把握している。

けれども、自分が何を思っているのかは、全くわからない、という事がよくある。よくあるというよりも、僕の日常は基本的にそういう風にして進んでいく。

おかげで、僕の思考というものは、僕自身のまかり知らぬ所で勝手に進み、勝手に一段落し、勝手に飽き、勝手に忘れ去られてゆく。

もしも仮に「自らが思っている事」を書き留めようと試みなければ、僕の思考というものは、一生の間、僕自身から切り離されて存在する事になる。実際にブログを書き始めるまで、というのはそうだった。人間の脳を外部に所持する人間の心を持ったチャドクガのようなもので、葉上で群れるか街灯に向かって飛ぶか、あるいはコンクリートの影で眠るか、といった行動のみで生きていた。ブログを書き始めていなかったら、きっと僕はずっとそのままそれまで通り、行動のみを自らとして生きていただろう。今頃は里知則の新作でもやっていたのだろう。もちろん、どうなっていたかはわからないけれど、おそらくはそんな感じだっただろう。

こうしてブログを書いている自分自身と、それまで通り行動のみを主軸(あるいは全て)として生きていた自分自身の、どちらが僕にとって「望ましいもの」なのかは、果たして知ることが出来ない。

どちらが望ましいかは別として、少なくとも今の自分はブログを書くことに非常な情熱を持っている。情熱を持っているが故にブログを書こうとする。しかしここで1つの問題が浮上する。自分が何を考え、何を思い、何を感じているのかが、全く理解出来ないのである。

そもそもが、僕の人生には、日本語で他人と意思疎通を行う機会、というものがほとんど無かった。会話、というものが存在していなかった。自ずから自らの考えている事を日本語で言い表す必要も無かったし、自らの思っている事を日本語に変換する必要も無かった。

気がついたら、僕は、日本語で考える能力や日本語で思う能力、というものを、ほぼ完全に失っていた。いや、失っていた、というのは間違いだろう。思ったり、考えたり、というのは脳みその働きでしかないわけで、それを行う際に言語があれば便利なのかもしれないけれど、言語が必須というわけではあるまい。

しかし、それを書き留めるには言語は必須である。可視化するには言語は必須である。その為には、思っている事を、日本語に変換せねばならない。これが大変である。

たとえば、brizゲーやSTGをしている時などによくあったのだけれど、「同時に2つの事を考えながらゲームをしている」という状態に、頻繁に陥った。「到達した」と書くのが正しいかもしれない。

頭の中で2つの、まったく関連の無い別の物事を考えながら、肉体はゲームをしている。それも、そつなくこなしている。(致命的なミスをして全てがゲームに引き戻される事も、あるにはあったけれど。)

例えば、その状況をブログに書こうと試みよう。
すると、どうなるか。

「DOTA allstarsをしました。」でおしまいである。自分が何を思っているのかを知ろうとしなければ、自分が何を考えているのかを知ろうとする努力を怠れば、それでおしまいである。それ以上のものは一切でない。

僕は自らを可視化するのが好きである。可視化マニア、みたいな所がある。ディアブロ2には、多分にそのような欲望を満たす要素があった。ドラクエ5にもそれがあった。そういうのが好きな性分なのだと思う。

よって、自らを可視化するという情熱を持っていたし、今も持っている事は持っている。。けれどもその情熱は自らの行動を可視化しただけでは満たされない。なぜならば、それは「細分された一要素の可視化」にすぎないからである。

DOTA allstarsの戦績を可視化する、というブログの目指すところは果たされた。行動を可視化していただけにも関わらず、それには一定の満足を覚えていた。けれども、行動そのものが失われた。DOTA allstarsはもう無い。当然の如く、何かを考えている自分自身のみが残る。しかし何を考えているのかは、さっぱりわからない。

仕方がないので、いつでもその概要を引き出せるように、キーワードだけを書き残していく。と、「何のことやら自分自身にもわからないキーワード」+「.txt」の0kbのファイルが草稿フォルダに積み上がる事になる。0kbでないもののほとんどは1kbである。けれども、物事が進展するという事は滅多とない。けれどもそれが突然とエントリーになったりする。その辺りが脳の恐ろしさであり、もの凄く楽しい。「あの時思っていたのは、こういう事だったのか」と、文字通りに我が意を得る。もちろん、投稿ボタンを押しても何が言いたいのかさっぱりわからないこともあるけれど、自らの思った事を知り得て日本語に書き表す事が出来る、といった思い上がりは所持していないので、酷く落ち込む事はない。ただ、書き表された文章が、自らの思いとはかけ離れている事に気がつき、失望する事はある。しかし「自らの思い」自体が把握出来ていないので訂正する事も出来ない無力感。無能さに失望させられてばかりである。

で、なんだっけ、はぁ、糞うぜえ。




そうすると、ブログ運営が楽になるよ。
はぁ?こいつ何様?5様?
ブログ運営が楽になる?何言ってんの?ブログ滅茶苦茶楽しいんだけど。ブログ書くの楽しくて楽しくてしょうがないんだけど。「ブログ書くのが辛いです」って何自己紹介してんの?おまえなんかには全く興味ないんだけど何で視界に入ってきてんの?そんなに寂しいの?寂しいならmixiにでも引きこもってろよ。お化粧しておべべ来て歌舞伎町でも歩いてろよ。うざいから。なにてめえ基準を人様に当てはめて悦に入ってんの?




もちろん、アクセス数は落ちるし、コメントも減るし、常連さんも去っていくかもしれない。
へえ。てめえはアクセス数気にしてコメント数気にして常連さん(笑)気にしてブログ書いてるわけな。それでこんな糞ゴミエントリーを天才カリスマアルファブロガーの真性引き篭もりhankakueisuu様に読ませてトラックバックしてそれが増えるように気にしまくってるわけか。あー、うぜえ。糞が。ほんとブログ書いてて良かったと思う事なんて1つも無いな。




でも、それでもブログを更新し続けなければならないという義務感の苦痛からは開放されるよ。
はぁ?苦痛?いや、確かにこういう糞ゴミエントリーを読まされるのは苦痛だからインターネットから消えてくん無い?今すぐ消えてくん無い?mixiにでも引きこもっててくんない?即刻消えてくんない?気分悪いから。なんで600エントリーかそこらの人間に1300エントリー書いてきた人間がブログの書き方(笑)について偉そうに高説垂れ流されて説教されなきゃんないんだ?しかもエントリほとんどブログ論(笑)って何?そんなにブログ論(笑)好きなら今すぐmixiにでも引きこもったら?糞ゴミだから。




ブログを書いているとこういう説教しか脳の無い(しかも中身は糞ゴミな)人達に説教されるのは何故か、という事を考えたとき、「引きこもりだからなんじゃないか」とか思ったりもしたんだけれど、ブログ魔王とか、西尾泰和とか、梅田望夫とかでも、普通に高説垂れ流されてせきょられるんだから、インターネットとはそういうもんなんだろう。ああめんどくせえ。めんどくさすぎる。