日本人が神と呼ぶものをアメリカ人はけだものと呼ぶ。



3年ほど前にお食事をご一緒させていただいたとき、「僕ねえ、ビーストって呼ばれてるんですよ」と宮川さんは仰っていた。「ビーストですか?」と僕が聞き返すと、「ええ、The BEASTです。」と、西海岸仕込みの耳慣れない発音でBeastを強調しておられた。「どうしてまた?」と聞き返すと、宮川さんはそれについて聞かせてくれた。

アメリカでは、よくわからない凄い人が遠くからやって来ると、何でもかんでも皆全部、「The Beast」と呼ぶらしい。「ウメハラって知っていますか?」「ああ、スト2の、強い人。」「そうです。彼なんかも、こちらではThe Beastです。梅原 The Beast 大悟です。」言われてみれば、確かにそんなだったなあ、と僕は思った。宮川さんによると、それは何も日本人だけに限った話ではなく、エメリヤエンコヒョードルやホドリゴノゲイラも向こうではビーストと呼ばれているし、あるいはルイスハミルトンや古くは野口英世などもThe Beastと呼ばれたそうだ。

「日本ではビーストと言えばボブサップですけどねえ」と、面白みのない返句を僕が返すと宮川さんは気を遣って「あれは、そのパクリみたいなものだと僕は思っていますよ。」と、よくわからないフォローを入れてくれた。向こうでは、アメリカ人に対してはビーストと呼ぶことはない、といった話をしばらく続けておられたけれど、僕は少し酔ってしまっていて、その辺の話を今ではよく覚えていない。「こちらではビーストだけど、日本では神って言いますよね。」と仰っていたささやくような甘い声だけは今もおぼろげに記憶している。

「会う人、会う人、みんな僕の事をビーストって呼ぶんです。ビースト達彦、ビースト達彦、って。おまえがあの有名な"宮川 The Beast 達彦"か、って嬉しそうに。それがなんだか居心地が悪くて。悪意は無いんだと、わかってはいるのですが。」と宮川さんは少し悲しげな表情を頬にぼんやりと浮かべておられた。僕はアメリカ人の気持ちになって、紫色のものを食べてパッションピンクのうんこをする世界一のCPAN Authorが太平洋を遙々超えて乗り込んでくるところを想像してみて初めて少し、彼のことを"The Beast"と呼びたくなるアメリカ人の気持ちが、僅かだけれどわかった気がした。

「かっこいいじゃないですか、ビーストって。僕なんて酷いですよ。アルファブロガーですよ。こんなんじゃもう生きていけませんよ。いいじゃないですか、ビーストで。ビースト達彦で。」と自虐気味に僕が言うと、宮川さんは少し俯いて平皿を見たまま、「僕だってアルファブロガーなんですけどね。」と呟いくようにぽつりと洩らした。やってしまったと僕は思った。冷たい空気がにわかに立ちこめた。少しだけ重い沈黙が2人のテーブルを静かに覆い、その重さが少しだけであったが為に、それはいっそう動じがたかった。

沈黙を破ったのは宮川さんだった。「あれですよ。知っていますか?」宮川さんはいつも僕に優しかった。「何がですか?」「松本さん、いるじゃないですか。Rubyの。」「あ、はい。どうかしましたか?」「彼もこちらではBeastなんです。"まつもとThe Beastゆきひろ"なんです。おかしいでしょう。」おかしいですね、と僕は笑って、宮川さんも微笑まれた。

「僕はビーストじゃないけれど、まつもとはあれ、ビーストって感じですよね。」そう言われても、よくわからなかった。宮川さんのビースト観を、うまく呑み込むことが出来なかった。「それはね、君が日本で暮らしているからそうなんだよ。こちらに来たら解る。こっちで暮らせばわかるよ。まつもとはビーストだけど、僕はビーストじゃない。僕はビーストじゃない。」「そんなものですかね。」「こっちで生活しなければわからないよ。それはね、日本に居たら一生わからない。サンフランシスコは自由だよ。日本とは違って。なんでも。それはね。アメリカで暮らしてみないとわからないよ。一度暮らして、そうしてみないと。」僕はまだ幼かったから、宮川さんの言わんとしていることを理解出来ていなかった。「おいでよ。僕がほんとうにBeastなのかどうかもわかる。来ない?一緒に。」僕は少し飲み過ぎていたし、勇気もなかったので、その話に答えを返さないまま、おざなりにして流してしまった。寂しそうにうつむき加減で微笑みながら、左の下唇を噛んでおられた宮川さんの横顔だけが今も僕の目には焼き付いている。