どちらを見ても神、神、神。神また神の大安売りや。



インターネットを彷徨っているとあちらこちらで神を見かける。
どちらを見ても神、神、神。神また神の大安売りだ。

KAZU野茂ジーコは言うに及ばず、麻生太郎から江頭2時50分まで、誰も彼もが神、神、神。宮本茂に鳥山明に菅野よう子まで神らしい。その辺ならまだ見過ごすも、「やくみつるは神」とか目にした日には僕らはもはや大コンフューズ。挙句の果てにはGIGAZINEも神、痛いニュースも高木浩光もグーグルまでもがみんな神。八百万にも限度ってものが。時、今、正に、やおろず時代。




どうして「神」がこんなにも量産され、その「神量産体制」とでも言うべき時代の流れがそんな風に支持されているかというと、それは、もう、間違い無く、皆さん寂しいだけなのであります。インターネットは寂しい人で溢れかえっている故に、神で満ち溢れてしまうのです。「寂しい、誰かと繋がりたい。」そんな風に思った時には、神をこしらえ高く掲げて、それをみんなで崇め立てるのが最も手軽な方法なのです。

彼ら「神産出体制」を構築している繋がりたいだけの人々は、その対象について、全く詳しくありません。それどころは、実質ほとんど知りません。神を造っている側、即ち勝手に神認定している人達も、それに乗っかり盛り上がっている人達も、双方共にいい加減です。対象についてよく知りません。よくわからないものを見つけ出しては知りもせぬまま「神」と呼ぶ。よくわからないけれどそれに乗っかり神だ神だと囃し立てる。そのようにして、神は量産され、そして造られた神により、寂しさが1つ一晩二晩、忘れ去られてゆくのです。一時凌ぎに過ぎないまでも。




神と呼ばれる対象の人を、真によく知る人達は、そんな流れには加わりません。彼らこそが「真に語る事の出来る人達」なのですが、神体制には乗りません。遠く離れた向こうから、じっと見ているだけなのです。あるいは目をやること無しに、歩幅を広げて歩き去るだけです。何故ならば対象を知る人にとっての「神」と呼ばれたその人物は、決して神様なんかじゃなくて、ただの人間だからです。ただの人間だからです。

ただの人間について真摯に語るという行為は、神量産とは対称的に、寂しく大概退屈です。何故ならば、対象の人物が神々しければ神々しいほど、語る分量は多くなり、それに伴いややこしくなり、余程の興味を持たない人には消化しづらくなるからです。故にそれらは骨が折れ、非常に疲れる草臥れ行為で、あまり好んでは行われません。結果として、神化時代の大きな流れは、世の奔流と化したのです。




繋がりたいだけの人々が、寂しいだけの人達が、神をこしらえ仕立て上げ、それを崇めているのです。その中には、前述の、「真に語る事の出来る人達」も少しは含まれています。しかし、彼らは、詳しい人物を神と呼ぶ流れには加わりません。「詳しくない人物を神と呼ぶ流れ」に加わっているのです。よく知る人を神と呼ぶ流れには加わらないけれど、よく知らない人を神と呼ぶ流れには加わるのです。何故ならば、彼らもまた、寂しいからです。

それは何もインターネットだけの事ではありません。たとえば、ジーコなんかは誰も彼もが「まあ、ジーコは神だな」とか思っているでしょう。けれども、誰もジーコをよく知りません。僕なんかも「まあ、ジーコは神だな」と思っていますが、記憶だけを頼りにジーコについて書いてみると、「バスコダガマ→レッチェ→バスコダガマ→三菱重工→鹿島」となりますが、合っていたのはアントラーズだけでした。ジーコが(黄金のカルテットを率いて)負けたワールドカップは72年だと思っていましたが、wikipediaによると82年でした。まあ、世の人もこんなものでしょう。

ジーコを神と認める人は、ジーコについて知らないのです。




それと同じで、ネットで神と呼ばれる人を、よく知る人は皆無です。よく知らない人が凄そうな人を見つけては、神、神、神と連呼して、そのポジティブな響きに寄せられ群がり集まる人らと、寂しい夜の寂しさを、誤魔化し凌ぎ紛らわせては、ぬくもりだけを、ただぬくもりだけを皆で共有しているのです。寂しさを紛らわせるには、よく知らない人を神にして、それを崇めるのが一番なのです。神という存在しない幻想を作り上げて、それを褒めるのが一番なのです。そうして今日も又一人、どこかで神が造られるのです。寂しさによって、孤独によって、寂しいだけの人らによって。