2008年10月16日木曜日

自分で書いたブログのエントリーの解説をさせられる事ほど、惨めな気分になるものはない。



僕が悪いのか、それとも僕の頭の悪さが悪いのか。


女学生の躯というエントリーに「なんとか19800円を捻出してください」というコメントが付いていたので、それに真面目にコメント返しをしていたら、泥沼に入り込んでしまった。なぜそんな事になってしまったかというと、「なんとか19800円を捻出してください」というコメントが酷すぎるのである。僕に言わせればの話だけれど。








僕が女学生の躯、というエントリーで欲していたのは表題を見ればわかるように、「女学生の躯」である。では、なぜ僕は「女学生の躯」を欲したのだろうか。

それは、「風呂付きの一軒家と、まどち付きのXbox360をセットにして、半月ばかり貸してもらう」為の担保としてである。それらの代価としての、女学生の躯を欲していたのである。




では、なぜ僕は「風呂付きの一軒家と、まどち付きのXbox360をセットにして、半月ばかり貸してもらいたい」と願ったのだろうか。

それは、「幸福の傍観者になりたい」と思ったからである。
幸福というものを、傍らで見ていたいと思ったからである。
「享楽の話が全て、どこか遠く、違う宇宙で行われている異形の異星人の営みのように思えた」と書いているように、僕はこれまで生きてきて、『人生イコール楽しみ』という構図を、一度たりとも間近で目にした事が無い。

それ故に、『人生イコール楽しみ』という価値観を信じられない。それどころか、人生というものに、あらゆる享楽が存在する事を信じられない。自らの絶望的気分の原因を、その一点に見いだしたのである。「PCの電源を入れるにも、その気力もなく、動機もなく」というのは、PCの電源を入れれば手軽に読める『人生イコール楽しみ』的な文章が、全て、現実感のない、実感の無い、存在していない捏造された、宇宙人の営みのように思えてしまったからである。

「享楽を間近で目にすれば、人生に対する価値観が一変するのではないか」と期待して、「幸福の傍観者になりたい」と願ったのである。




「風呂付きの一軒家と、まどち付きのXbox360のセット」とは何か。

”風呂の付いていない一軒家”が存在するだろうか?存在しないに等しい。
つまり、僕が「風呂付きの一軒家」と書いたものは、風呂付きの一軒家ではない。では、それは何かというと、「風呂」とは健康である。「一軒家」とは生活基盤である。そして「Xbox360」とは享楽なのである。

そして、その三点を得るのは、僕ではない。
僕が健康を欲しているのではない。僕が生活基盤を欲しているのではない。僕自身が楽しみを欲しているのではない。僕以外の何者かが、それらを同時に得ている場面を、間近で見てみたいと、それを願い、欲しているのである。

つまり、僕は健康も、生活基盤も、享楽も、望んでいない。
僕はそんなものには値しないし、欲してもいない。値しないし、欲してもいないという事実に、うんざりしているのである。それらを欲するために、それらに値すると思えるようになる為に、ただの一度でいいから、『人生は楽しい』という光景を目に焼き付けたい。それらが、まことに存在するものであると信じたい。その為に、蛾の舞う姿ではなく、(蛾の舞う姿では満足出来ない。自らの貧弱な想像力では、蛾の舞う姿からは人生イコール幸せという構図を思い描く事すら出来ない)「健康で、生活基盤があり、楽しんでいる人間の姿」を、間近で見たいと思ったのである。




つまり、Xbox360だけが手に入った所で、僕にはなんの意味もないのである。
「Xbox360」と書いたけれど、それが意味するところは「Xbox360」ではない。「まどち」という架空の人物(厳密に架空かどうかはさておいて)が「健康(精神衛生的なものも含めて)」と「生活基盤(職、労働等も含めて)」と「楽しみ」を並列的に過ごしている現場を、見たい、目にしておきたい、という事であって、そんな記号としてのXbox360にレスを入れられても、困る。




で、それ(傍観者たる権利)を手に入れるのに、なぜ「女学生の躯」が必要かというと、女学生の躯というものがあれば、2週間くらいは、それ(健康で生活基盤を持った楽しい人生)を間近で観察させてくれる人が、世の中にはいるだろう、と想像したからである。もしも僕が女学生ならば、股さえ開けば2週間くらいはなんとかなるだろう、と思ったからである。

つまり、僕は「(幸福な)人生を擬似的に体験する為の媒体としてのまどちさん」を欲し、「(幸福な)人生を擬似的に体験する為の媒体を体験する為の媒体としての女学生の躯」を欲したのである。




そして、「人間という生き物は、本当に、この僕が息衝く世界に、存在しているのだろうか。女子校生という生き物は、本当に、この僕が息衝く世界に、存在しているのだろうか。疑いが生まれ、憎しみが生まれ、涎が垂れて臭い。」と書いているように、それら「自らが欲しているもの」を想像する事すら出来ない貧弱な自分自身を、悲しんでいるのである。

この地球上に確かに存在しているであろう現実の中で、僕が唯一信じられるものが、「二本足で部屋に立っている男の涎の臭さ」だけであるという、ありのままの現実に、あまりの現実に、呆然と立ち尽くしているのである。




ではなぜ「半月(=二週間)」でなければいけないかというと、それは、おそらく僕の精神的謙虚さというものが、2週間くらいで尽きるだろう、という予測が故である。

もしもこれが2週間ではなくて、3週間ならばどのようになっただろうか。
僕は最初の2週間に関しては、「ああ、人生とは楽しみなのだ」という事をつぶさに見るだろう。観察し、体感し、そう考えるだろう。そして、「ああ、人生とは楽しみなのだ」とポジティブな気分になるだろう。

けれども、最後の1週間はそうは行かない。
僕の甲斐性の無さからして、必ずや、それに飽きて、「こんなものは、もうどうでもいいわ」と思うはずなのである。「飽きた、飽きた、ああつまらん」と思うはずである。つまり、最初の2週間で手に入れた、希望というものを、最後の1週間で、完全に逸してしまうのである。




それ故に、その期間は、必ずや、「2週間」でなくてはいけない。
それ以上長くなると、必ずや、僕は、今と同じ結論、即ち諦めだとか、憎しみだとか、といった類の感情を、たとえるならば絶望とでも書き表すべき感情を抱いてしまうだろう。




しかし、2週間だけ借りたならば、2週間できっちりと返したならば、僕は「もっともっと」と、より多くを望むだろう。2週間では物足りない、もっと欲しかった。3週間、4週間、いや、一生の間、それを欲しかった、と思うだろう。

そう思う事は、即ち人生に希望を抱く、という事である。
即ち、僕は人生に希望を抱く、という事を欲しているのである。




人生に希望を抱くための媒体としての「風呂付きの一軒家と、まどち付きのXbox360のセット」を、「風呂付きの一軒家と、まどち付きのXbox360のセット」を手に入れる為の媒体としての女学生の躯を、欲しているのである。望んでいるのである。そして、女学生の躯が決して手に入らない事に絶望し、立ち尽くしているのである。それどころか、それ(女学生の躯)を想像する事も出来ない自分に、絶望しているのである。




ここで言う女学生の躯、というのは現実としての女学生の躯ではなく、「まどちさんを手に入れる為の媒体」であるという事を、念のため注記しておきたい。(つまり、女学生の躯的な、まどちさんを手に入れる為の媒体になるものであれば、何でも良い)。