2008年10月21日火曜日

それでもベジータならば。



世の人が、「もしも自分がマイケルフェルプスだったら」と想像する程度に、あるいはマイケルフェルプスが「もしも自分がベジータだったら」と想像する程度に僕は、「もしも自分が人並みに頑丈で健康であったならば」と考える事がある。

昔学校で後ろから突き飛ばされて足首を悪くしてからというもの、少し歩いただけで機嫌が悪くなり、憂鬱な気分になる。そうならないようにと努めても痛いものは痛い。その痛み自体は堪え忍べても、痛みによって引きずり出される昔の要らない記憶の類は、今でも僕には耐え難い。そうして堪えている間にもまた足首は痛くなる。そうして僕は歩くのを止めた。逃げ出したのだ。

けれども、痛みから逃げてみた所で何も良くなったりはしない。悪くなるばかりだ。頭も心臓も痛くなる。胃も腹も痛い。重ねて頭は尚痛い。そうなるともう逃げ場はない。眠ろうにも眠れない。やっとのことで眠ったならばすぐに苦しさで目が覚める。かと言って今更歩き出してもどうにもならない。そんな気すらも起こらない。それでも時々思う事がある。もしも自分が人並みに頑丈で健康だったならば、僕はもっと何かを成し遂げられたんじゃないか。誰かに優しくできたんじゃないか。少しでも何か出来たんじゃないか。そんな風に思うと悔しくて、悔しくて、耐えられなくなる。

だが、そんなものは嘘だ。大嘘だ。僕はこの体と、この心で十二分に出来ることすら、まったくやってこなかった。投げ出して、逃げ出して、ぐうたら寝てばかり居た。しんどかったとか、起きられなかったとか、そんなのも嘘だ。全部嘘だ。しんどくたって出来る事はある。起きられなくても毎日少しずつ頑張ればどうにかなっただろう。それをやらなかった。くだらないプライドとか、見るに堪えない弱さとか、性悪さとか。そういったもので自分を庇護した。具合が悪くなると心まで弱くなるなんていうのは、嘘だ。体調が優れないのにかこつけて、弱音を吐いていただけだ。僕には解る。

たとえばもしも自分がマイケルフェルプスだったとしても、何も変わらない。全く同じだ。同じようにぐうたらで、同じように投げ出して、同じように逃げていた。僕という人間はそういう人だ。この血と、この肉で、もっと真剣に生きるべきだったのだ。一生懸命に、生きるべきなののだ。何からも逃げずに、逃れずに、目一杯歯を食いしばって頑張るべきなのだ。それもしない人間のifは、ただの泣き言でしかない。けれどもベジータだったらば、と考えてしまうのが僕の弱さの本質である。強くありたかった。もうどうでもいい。