へうげものと天啓。

ブログサーフィンをしていると、アニメへうげものを必死に叩いてたはずの人がアニメへうげものを心の底から楽しんでいた。よくもまあ、そんな手のひら返しが出来るもんだと思いながら過去ログを遡って見たら、アニメと原作者が揉めた事で全ては氷解し、あとは楽しむだけ、ああ楽しいな楽しいな、という事だった。いいなあ、天啓。天啓の存在するネガティブキャンペーン。

インターネットで何かを叩く人は多い。何かに対して、上から目線で冷笑的に見る人も多い。そういった人のほとんど全ては、何かを叩いたり、見下したりする行為を、ただ快楽を得る為だけにやっている。彼の人だって、その類だと思う。けれども、彼の人には天啓が存在していたのだ。天啓が降りた瞬間に、彼の人はその立場を完全に放棄してしまった。いいなあ、天啓。天啓の存在するネガティブキャンペーン。

インターネット上で行われる叩き行為や見下し行為の多くには、天啓が存在しない。それが解消される方法、というものが存在しない。そして、解消されない方が、叩く側にとっては都合がいい。天啓の無いネガティブキャンペーンは、永遠に続く娯楽として人に快楽をもたらし続ける。叩くという行為が楽しみと一体化している。だからこそ、そういう行為を目にする度に、うんざりする。

しかし、天啓の存在する叩きは違う。天啓の存在する見下しは違う。天啓が降りた瞬間から、手のひらを返して肯定的に楽しむ事が出来る。天啓が訪れた瞬間から、見上げて崇め奉る事が出来る。こんなにつまらないものは無いと言ったその口で舌の根も乾かないうちに、こんなに楽しいものは無いと平気で言える。叩きや冷笑という行為と、楽しむという行為は、天啓を隔てて完全に切り離されている。

そういう事だけを、したい。天啓の存在する事だけをしたい。漫画のアニメ化史上で最悪とか叩いておきながら、今やってるアニメでは一番とか平気な顔して書き綴れるような人間で居たい。娯楽としての冷笑、楽しみとしてのネガティブキャンペーンとは距離を置き、天啓の降りてきそうな周辺だけを、ゆるーり、ゆるーりと、漂いたい。そういう志を、捨てずに生きたい。あと、へうげものを見てみたい。あと、へうげものってのを読んでみたい。