防弾チョッキの上から大砲で撃たれると死ぬ。

過去に書きだしたはいいものの、投稿ボタンまで辿り着けなかったテキストの断片を、GTDの週次レビューよろしく片っ端から読み流して整理していたら、精神的に対処不可能なテキストに次から次へと行き当たり、酷い目にあった。散々な気分に陥った。

自分と自分の間を隔てるインターネットという壁は、我が身を守る防弾チョッキのようなものだ。インターネットを使わずに、紙と鉛筆で書いたならば、自らの全ての痛点にぴったりと突き刺さり、致死量のダメージを与えるであろう文章も、インターネットという人類の英知の鉄壁の防壁を通して読み書きすればかろうじて、手当て可能なダメージで済む。

傷は負う。確かに傷は負う。防弾チョッキの上から撃たれても、痛いものは痛いし、口径によっては負傷は免れない。しかし、致死量の運動エネルギーを持っていた銃弾が一つ、地面に落ちて失われるのだ。一度地に落ちた銃弾が、致死量の運動エネルギーを取り戻す事は不可能である。僕がブログで自らを撃てば、世界はほんの少しだけ、少し安全になるのである。僕が盾となり、犠牲となり、深手を負うだけのことで、世界は平和に近づくのである。即ち、僕は世界を守っている。僕が世界を守っている。世界が今日も平和だとすればそのわけは、僕がブログを書いているからである。

ところが、中には銃弾に収らないテキストもある。中には、というよりも、自らの事を理性を持って、真剣に考えれば考えるほど、真面目に向き合えば向き合うほど、それは銃弾では済まない。インターネットという防弾チョッキの上からでも、致死量のダメージを与える事の出来る恐ろしい武器になってしまう。僕は死にたくない。僕は、生きたい。痛みとか、苦しみとか、そういう事とは無縁の生活を送りたい。呑気に毎日を過ごしたい。

故に、致死量のテキストは決して読み返される事なく、推敲される事なく、誤字脱字を修正される事も無く、もちろん投稿される事もなく、致死量の運動エネルギーを維持したままで、Cドライブの宇宙の中を、不死身の機械のシャークのように、全てを維持して飛び続けている。それに、行き当たってしまった。その山に、行き当たってしまった。爆発している、飛んでいる。ただ、ただ、恐ろしい。