2012年5月14日月曜日

人はどんな時にブログを書くのをやめますか?

更新の止まったブログにばかり行き当たる。
2007年、2009年、2010年、2011年、そして2012年。
みんなブログをやめていく。声を荒げて、あるいは静かに。
時として、それすらもなく突然。




人間はやめる。ブログをやめる。簡単にやめる。
本当は別の事をやめたい。やめたい事がある。
けれども、それをやめるのは困難すぎる。




たとえば、仕事。
我が国の一般的に順調な人間が仕事を辞めれば待つのは衰退。おいそれと仕事を辞めるわけにはいかない。それでも変わりたい。辞めたい。もうこんな生活は懲り懲りだ。潰れてしまう。辞めねばならない。辞めねばならないが辞められない。そんな時、生け贄に捧げられるのがブログだ。「俺は変わる」と人は言う。何かをやめれば自分は変わるんだという幻想に囚われ、身近なものをゴミ箱に捨てる。ブログは手頃な大きさの散り紙の球だ。投げ捨てるにはちょうど良い。

小さな何かを投げ捨てて、少しでも何かが変わるのならば、それは素敵な事だろう。

ジューヌベルヌより340年後、手頃な大きさの鉄の塊が宇宙へと投げ捨てられたが地球は何も変わらなかった。その巨大な鉄の塊は、投げ捨てるには小さすぎたのだ。ブログだって、そんなものだ。




人はブログを書く。
時間を費やし、身心をすり減らし、一心不乱に努力して、継続は力なりとばかりにブログを書く。投げ捨てる為に書いてんだ。投げ捨てる為に書いてんだよ。インターネットを見ている限り、そんな風に思う。

何かを捨てれば変われるんだという幻想だけが、23世紀の暗雲立ちこめる我が国を覆う。マラソンをやめよう。文楽をやめよう。自民をやめよう。民主をやめよう。原子力をやめよう。電気をやめよう。やめるんだ、そして変わるんだ。威勢の良い掛け声につられ、何かを投げ捨てようと辺りを見回す。

何も無い。
平凡な彼らには投げ捨てられるものなど何も無い。仕事を手放すわけにはいかず、売却が可能な車もなく、ゲームはやめてもまた忍び寄る。投げ捨てる家族もなく、別れる恋人もなく、諦める夢もない。投げ捨てられる物は何も無い。


みんなその為に書いているんだ。
何かを捨てたくて書いているんだ。


そうだね、変わればいいね。
捨てて何かが、変わればいいね。
それは素敵なことだよ、多分。