頭が痛いと、よく「首から上は爆発してしまえ」とか思うのだけれど、何らかの経緯をへてそのように思うようになったわけではなく、ただ単純に爆発しそうに痛いだけだったんだという事に、今気がついた。たとえばお医者さんに「どんなふうに痛いですか?」と聞かれて「爆発しそう」としか答えられないとすると、それは色々と問題がありそうだけれど、僕の人生においしゃさんは登場しないので、そんな心配は不用なのだ。今日も頭痛でブログのエントリーが意味不明。頭痛じゃなくても意味不明だけど、両者は全然違うんだよ。
また、頭の痛さを「爆発しそう」でしか表現出来ない自らの痛覚の貧しさに少し悲しくはなるけれど、これに関しては昔はもっと豊かだった、としか答えられない。繰り返す痛みの中で情緒や豊穣さ、あるいは多様性といったものが小さな所から摩耗してゆき、爆発というどーでもいい巨大な感覚だけが生き残った。だから少しでも苦しい事や辛いことがあると、爆発しそうだ、ああ爆発しそうだ、と文句ばかり言っている。もちろん爆発なんてしない。勝手に大げさに騒ぎ立ててやれ爆発だ、それ爆発だと言っているだけ。あああ、もう痛くて痛くて爆発しそう。
少し前に気がついたのだけれど、お腹が空いているという事に気がつかずに、飢餓状態で起き続けていると、ある時点で突然一気に具合が悪くなる。もしかして、今日の爆発もそれかなーと思ってご飯を一握り食べたら、吐き気を催して胸元が爆発しそう。あー、もうどうしようかな。痛いとか、しんどいとか、具合が悪いとか悲鳴を上げながらSOSを求めたところで、そんなのいつもの事じゃんと、少し口を開けて微笑みの前兆で表情を固定したまま、豚のように鼻で笑ってそれでおしまい。アテンションプリーズったって、爆発しそうな痛みくらいじゃ、僕は自らの注意すら引けない。興味が無いんだよ、あんたには。