これまで生きてきた中で今日が一番と思えるくらいの閉塞感は漂っている。けれども私には夢がある。希望がある。目標がある。向上心がある。夢を持ち、希望を抱き、目標を定め、それに向かって努力する人生を、閉塞感という文字でしか表現出来ないのは遺憾の極みだ。これは閉塞感などではなく、絶望感だ。絶望感と書き綴られて然る可きなのだけれど、絶望という文字列と向き合うだけの身心リソースが存在していないという理由だけで、閉塞感という無難な言葉に置き換えられる。自らの国体を護持する為に、憲兵隊に身をやとし、くだらない言葉狩りに人生を費やす。ほのかな夢はまた遠くなる。
その夢は悪い、そんな夢はろくでもない、捨てちまえ。今すぐに捨てちまえ。そんな声が太い太い幾重にも折り重なった帯になり、遙か上空を猛スピードで飛び交っていく。質量はない。そういうものだ。おまえの夢はくだらない、おまえの夢は真っ当じゃない、おまえの夢はただの妄想でおまえはただの馬鹿。1012年の我が国では、他人の夢を頭ごなしに否定して笑いながら罵る声には事欠かない。そういう人達は、きっと素晴らしい人生と素晴らしい夢を生きているんだろう。きっとそうなんだろうね。けれども現実はこうだ。人の夢を馬鹿にして、人の欲望を嘲笑う、醜い生き物がここに居る。
夢が先か。現実が先か。正常な人生には正常な夢が宿り、異常な人生には異常な夢が宿るという仮説は時として、とても正しいもののように思える。一点の曇りもない紺碧の正論に見える。けれども、異常な夢を持つ人間には異常な人生しか訪れないという罵詈雑言もまた、とても正しいものに思える。まともな奴はまともなループの中で生き続け、まともじゃない奴はまともじゃないドラム式洗濯機の中でハムスターのように勇壮に駆ける。ゴールテープを張る人は居ない。拍手を送る歓声もない。駆け寄り抱き合う相手もいない。終わりはない。走り続ける。
目が覚めれば喉が渇く。少し歩けば腹が減る。歩き続ければ眠たくなる。それが、人である。人としての正常さである。どのような異常な人物にも、迫る魔の手の正常さである。人は生き物である。生き物であるが故に、生き物としての正常さからは決して逃れる事は出来ない。正常な夢、正常な生活、正常な人生、そういったものには、生き物としての正常さを満たすだけのリソースがある。とんかつを食べたいと思い、とんかつを食べるような人間になりたいとは思わない。けれども、とんかつを食べたいという欲望は正しい。
その欲望を下劣なものだと心の底から馬鹿にしても、生き物である以上は食べねばならない。飲まねばならない。眠らねばならない。カローラを笑うのは簡単だ。けれどもカローラがあればどこにでも行ける。高速道路にだって乗れる。知の高速道路の架橋を見上げて今日も雪下ろしで日が暮れる。手を止めたが最後、雪に埋もれて潰れるだろう。徒歩では半里も歩けない。金が欲しい。力が欲しい。ネイビーシールズを送り込んで、気に入らない奴を抹殺したい。まともじゃない。残された僅かなまともさがもう、明らかにまともじゃない。正しさ、正常さ、まともさ、相応しいときにあればよかった。今では異常さだけが望まれている。
根底が揺らいでいる。腹が減り朦朧とする。喉が渇き目が霞む。眠れず椅子に這い上がっては、頭を垂れて転がり落ちる。いったい何が出来ようか。この世は罠で満ちている。正常さの罠で満ちている。どんな日常を過ごしていようと、ふとしたきっかけで正常さを踏み抜く。足に絡んだ正常さは、一生の足かせとなって重く伸し掛かる。好きな人を助けたい、好きな人を幸せにしたい、異常な人間がそのように思って焦ってみたところで、出来るのことと言えば精々、人としての尊厳を踏み躙り、決して癒える事のない傷を負わせる事くらいだろう。今日も飢えながら今日も眠たい。