ライオンがいない。

水牛を喜ばせるのは難しい。水牛というからには水が必要で、水牛というからには草が必要だ。清らかな水を湛える巨大な池も、草を育む広大な大地と太陽も、僕の手には如何ともし難い。他方、ライオンを喜ばせるのは簡単である。肉をくれてやればよい。




水牛に追突されて人が死んだというニュースは毎日のように聞こえてくる。けれどもライオンに喰われて死んだという話はもう随分と目にしていない。水牛で死ぬのも、ライオンで死ぬのもどちらも同じ死だ。けれども水牛とライオンは違う。砂埃を上げて一人の人間に向かって突進する水牛を突き動かしているものは、怒りだ。人間に対する不信感と憎悪を募らせた末の激昂。耐えに耐え、耐えきれなくなった怒りの渦が忿怒となって、水牛を人へと走らせる。

ライオンは違う。ライオンはそうではない。ライオンを人へと走らせるものは喜び。生きる喜び。幸せ。幸福感。肉を食べられるという根源的欲求。生の愛おしさ。水牛のそれとは違う、完全にポジティブな感情。水牛を不機嫌にして呪われながら死んで行く人がいる一方で、ライオンを喜ばせて死んでいく人が居る。幸か不幸か、世界は水牛で溢れている。ライオンではなくて、黒くて、巨大で、二本の角の、水牛に溢れている。

怯えながら歩く。誰かを不愉快にはさせていないか。誰かのストレスになってはいないだろうか。怒りを買っているんじゃないか。目障りなんじゃないだろうか。水牛の群れに混じって、こんな所を歩くことが、果たして僕に許されるのだろうか。追い詰められて夢に見る。そして時々夢想する。ライオンに溢れた世界を。誰もが僕を望み、誰もが僕を夢に見て、1秒の猶予もなく飛びかかられる世界を。そんな夜道はこの国には無い。




この国にはライオンが居ない。ライオンが見あたらない。いつの日か居たはずのライオンが、どこを探しても見つからない。ライオンの居ない国で、ライオンを喜ばすのは至難の業だ。ライオンの居ない国で、ライオンに食べられるのは不可能である。それでもライオンを信じる僕は、毎日を水牛に怯えながらライオンを探している。少しでも油断をすれば、水牛の角が腹に刺さる。少しでも居眠りをすれば、水牛の蹄が頭を割る。苛立ち、腹を立て、機嫌を悪くした水牛の荒い鼻息が、こうしてる間も耳たぶを舐める。僕はそれに萎縮して、それでもまだライオンを夢見る。




年の瀬はかくも無情で、我が身は見るも無惨だ。たとえばこの国にライオンが居れば、ライオンは何に心を躍らせ、ライオンは何を喜ぶだろう。それを思い浮かべるのは、心が晴れる夢想ではない。この貧弱な体の、この貧弱な肉と血では、ライオンを喜ばす事は出来ないだろう。ライオンの胸を熱くし、ライオンを走らせるのは、僕ではなくて水牛。少しだけかわいい水牛、少しだけ弱った水牛、少しだけ小さな水牛。かわいげのある水牛。存在しないライオンが、仮に存在していたとしても、僕が喜ばす事の出来るライオンは存在しない。存在しないライオンだけでなく、存在しないライオンもまた、存在しないのである。




僕に出来るのはせいぜい障害物。ライオンが水牛を襲う邪魔をする、目障りな障害物。ライオンが僕を食べてくれません。ライオンが僕を喜んでくれません。ライオンが僕を望んでくれません。ライオンが僕を襲ってくれません。水牛に揉まれ、水牛に突き飛ばされながら、死にたくない、まだ死にたくないと藻掻く。ライオン、ライオンと呟きながら。この国にはサバンナが無い。喜んでくれるライオンは居ない。あぶり出されるのは傲慢さ。




蛆じゃ駄目なんですか。蠅じゃ駄目なんですか。君が死ねば肉は腐り、蠅が飛んでくる。蠅は君の体に卵を産み付け、そこでは白く健やかな蛆が無数に育つ。君の肉だったものは蠅の肉となり、君の血だったものは蠅の血になる。君の死は水牛ではなく、ライオンでもなく、蠅を喜ばせる。蠅を幸せにする。蛆を育む。それじゃあ駄目なんですか。蛆じゃあ駄目なんですか。憎み続けて生きてきた、自らの体の血と肉が、ライオンに値するという思い上がり。どうして蛆じゃあ駄目なんですか。夜通し問うても回答はない。もう動かない。