Pythonで空は飛べぬと証明してほしい。

直視に耐えない現実を生き続けていると、妄想に取り憑かれるのは自然なことである。妄想は1人の人間を耐え難い環境から脱出させる為の力である。妄想とは、未知の大海原へとたつための帆でありオールである。また竜骨であり、船体でもある。ある時はライムであり、ある時はキャベツである。へさきに舞い降りて羽を休める鰹鳥であり、波間を跳ねながら虹色のしぶきを上げて進むイルカの群れである。地球に生命が生まれてからの長い長い苦難に満ちた年月を、私達の祖先は妄想という力によって生き延びてきた。人とも呼べぬ私達の祖は、妄想とも呼べぬ原始の妄想を手に未知へと挑み、新たなる境地を切り開き、旅を続け、僅かな生存空間を見つけた。そして生きた。生き延びた。そのような過去を持つ私達には、生まれながらにして妄想という能力が備わっている。妄想とは、生き物としての資質である。

しかしながら、現実は無情である。僕が賢明に生きたこの人生において、僕が自らの手でハンマーを握りしめ賢明に叩き潰し続けてきたものは、ただ自らの人生だけではなく、ただ自らの可能性だけではなく、ただ自らの日常だけには留まらない。怒りと憤り、憎しみと呪いを込めて、自らの肉体を酷使し、自らの心を滾らせ、自らの妄想を叩き割って生きてきたのだ。

かつてはまるで直立した錆びない鉄の柱のように、夏至の正午の太陽を目指し、その先を確かめる事すら不可能な程に高く真っ直ぐと天に向けて伸び立っていた僕の妄想は、足元の土を掘り返され、重機によってへし折られ、怒りや痛みで血走った熱によって溶かされ、叩かれ、砕かれ、鉄である事すら否定され、土に返ることも咎められ、海に沈められる事も阻止され、山に打ち棄てられる事も拒否されて、行き場を無くし、晒し者になり、心の地に鎮座し続けた。

その哀れな残骸は、時と共にやがて薄れ行くべき忌々しい記憶を肉体に刻み込み、毎夕苦しみと共に非情なる過去を蘇らせ続ける痛みのモニュメントであり、自らの精神を破壊する、血なまぐさい竜の肉片の形をした鉄槌であった。誰も手に取らず、誰も握らぬその槌は、毎日何かを叩きのめした。

そして健全さは死んだ。人に備わっている資質としての妄想から、健全さが完全に失われてしまった。その事実を持って、妄想は死んだと言う事は容易い。しかしながら、地球に生命が誕生してからはや40と数億年。あまりの長きにおいて妄想を動力としてきた私達の祖が、妄想を死の淵から救った。けれども、である。叩きのめされた無惨な末路の妄想の残骸は、それからの妄想に健全さが宿ることを未然に阻止し続けた。

もはやこの僕の惨めな人生の日常を生きる我が身に宿る妄想は、その太さや高さ、あるいは真っ直ぐに立つか横たわるかという次元にすら達しない。それは固体ではなく、かと言って液体でもなく、無論のこと気体でもない。実際にそこに妄想は存在しているのだが、妄想はまるで存在していない。忌々しいモニュメントの周囲を、果てなき地平を、無限の大海原を、実在しない妄想ではない存在せぬ妄想の妄想が生き霊と化して全てを覆い尽くしている。手で払っても拭えない。口で吹いてもそれは飛ばない。ハンマーで殴る事もままならない。それどころか、手も、口も、またハンマーも、全てがそれで出来ている。固体でも、液体でも、気体でもない、現実でも妄想でもなく、精神でも心でもない何かで全てが成り立っている。

僕には教養というものが無いので、過去の賢人達がそれをどのように呼称したのかを知らない。知るよしもない。知りたくもない。この知りたくもないという感情もまた、呪われたそれから出来ている。僕の心や行動がそれに支配されているのではなく、私自身はそれそのものであり、私の心はそれそのものなのだ。僕が毎夜思い出して涙を浮かべる辛い思い出も、肩と首とが煮え立つ憎悪も、インターネットに書かれた素敵なテキストを見つけて弛む口元も、全てがそれなのだ。それこそが僕であり、僕こそがそれなのだ。

得体の知れないそれと化してしまった僕は、地球の平和と人類の幸福を頑なに願い続けたありし日の妄想と同じように、わけのわからないことを思い、わけのわからないことを口走り、わけのわからないことを賢明に続けている。健全な妄想というものが常識という物差しでは測れぬ無限の力であったように、全てが破壊されてそれとなった僕もまた、常識という物差しでは測れぬ、未知の忌ま忌ましさとなってしまった。

それと化した僕は譫言のように毎日を呟いて過ごし、時には不規則な怒号を張り上げながら、圧迫と威圧をもって僕へと迫る。曰く、Pythonで空は飛べぬと証明しろと言う。この問いこそがそれの象徴であろう。理解不能であり、理不尽であり、かつて全てが健全であった頃は、妄想という名で呼ばれたものの、姿を変えた末路なのだ。常識的に考えて、Pythonで空は飛べぬだろう。空を飛ぶには翼が必要であり、空を飛ぶにはジェット燃料が必要である。掻い摘んで言えば、地球の重力に抗う為の何かが必要である。Pythonはその何かたり得ない。故にPythonでは空を飛べぬ。安心してくれたまえ、何を恐れているのかは知らないが、Pythonで空は飛べないのだ。

明白である。何者かがPythonで空を飛ぶ日は来ない。絶対である。揺るぎない事実である。そのように説明しても、それと化した僕の心は聞く耳を持たず声を荒げる。もう何年も繰り返している。曰く、Pythonで空は飛べぬと証明しろと。それの前では論理は無力だ。そして僕はそれである。それそのものである。ブーメランと空手を掛け合わせたまったく新しい格闘技が存在しているように、インド人と右を組み合わせたまったく新しいハンドルが存在しているように、PythonとJAVAを組み合わせたまったく新しい空を飛ぶ方法がこの世界には存在しているのではないかと、毎日を怯えて生きている。Pythonで空は飛べぬと証明してほしい。それにも理解出来るように。