2014年6月18日水曜日

余命。

頭が痛いのは恐くない。それは骨の痛みであり、血管の痛みであり、肉の傷み、皮膚の痛みだ。僕は骨がどのようなものか知っているし、血が肉が、そして皮膚がどんなものかを知っている。それは毎日そこにあって、それを毎日目で見ている。大体のことは知っている。

心臓はそれらとは少しだけ違う。僕は心臓がどこにあるのかを知らないし、心臓が何をしているのかも知らない。頭が痛くないときに、僕の手はよく頭に触れるけれど、心臓が痛くない時に、僕は心臓に触れたことが無い。痛いときだって触れる事は出来ない。それどころか、心臓というものが存在している事すら知らない。

心臓を知る簡単な方法は、愛し合う人と抱き合うことだと、どこかで聞いたことがある。幸いにして僕はその方法を知らず、自らの体が食い込むように心臓を強く刺す日を別にすれば、心臓を知らずに毎日を生きている。

ときどき心臓が痛くなるのはブログを書き始めるよりもずっと前からの話で、なんとなく、わけもなく少しだけ辛い。心臓はあまりにも奥底に有り、何をしているのかもわからない。正体不明で、得体が知れない。僕にとっては、ただ痛みを告げる機関でしか無い。心臓が恐くて、心臓に怯えながら生きている。

過去ログを読みあさればずっと前から自分自身が心臓について色んな風に書き続けているという事を確認することくらいは出来るだろう。昨日今日になって突然心臓が痛むようになったわけではないと、自分を安心させることくらいは出来るだろう。そんな事をしてなんになる。そして僕はもう自らの過去に耐えられるだけの力を持っていない。それに、全ての心臓はいつか止まる。

右の心臓が痛む日は、その痛みとは裏腹によくない予感は薄らいでゆく。痛いけれど、痛いのは心臓じゃない。wikipediaかインターネットで読んだ知識で知っている。心臓が右胸には無いことを。だからこれは心臓じゃない。心臓が痛いわけじゃない。体の中の、どうでもいい機関が痛いだけ。大事なところは痛くない。昨日痛かったのだって、左の心臓ではなくて、右の心臓だったかもしれないと思えるほどに気が晴れる。

けれどもやはり心臓が痛い。きちんと左の心臓が痛い。この十年一度も医者にかかったことなどなく、というのは健全なる日本人にとってはその健康さを誇るための台詞であるが、この十年一度も医者にかかったことなどない。僕は健康なんだ。とても健康なんだ。努力をしていないだけ。頑張っていないだけ。夢に向かって猛進していないだけ。夢なんて無いけどね。書きたいブログはいっぱいある。

やりたい事なんていつでもやれる。書きたい事はいつでも書ける。今日でなくたっていい。明日でも、明後日でも、あるいは一年後でも。もちろん、10年後でも構わない。今年じゃなくてもいいんだ。来年でもいいんだ。再来年でもいい。ただ、たとえば先延ばしにしたその先にまで、心臓が動き続けているという確信が無い。もちろん、その身勝手な心臓は僕の耳では聞こえない小さなテンポを平気な顔して刻み続けるんだろう。心臓は未来永劫動き続け、僕は未来永劫生き続ける。何一つ叶わないまま。何一つ成し遂げられないまま。どちらにしても変わらない。動き続けても、止まっても。