2015年4月18日土曜日

自虐に見せかけた復讐劇

「大好き」
なんと甘美な言葉であろうか。






けれどもその短い生涯において最終的に愛を否定するに至った吉田は、1人への告白は自らへの裏切りであり、100人への告白は世界に対する叛逆であると書いた。僕には、難しい事はわからない。自分の頭の悪さを免罪符にして、許しを請うてるわけではない。僕はそんな卑怯者のブロガーじゃない。ただ単純に、わからないのだ。果たして僕は愛を知らない。知らないものは、語れない。この短い一生において、誰かを愛する資格というもの決して持ち得ないだろうし、誰かの愛に値する人間にも成り得ないだろう。故に、わからないのだ。誰かを愛するということも、誰かに愛されるということも、僕には理解出来ない。それにも関わらず、愛されたいと願い続けて生きている。何者かを愛したいと渇望し、愛するに値する物をインターネットで探し続けて生きている。愛だけが僕を突き動かしている。得体の知れない愛だけが、僕が生きる理由であり、そして死ぬ理由でもあるのだ。

愛されずに育ち、愛とは無縁の人生を過ごし、愛を知らずに死んでゆく。たとえば誰かを愛したとしても、あるいは誰かに愛されたとしても、それが愛とは気がつかない愚かな男の人生は、決して発見されることの無い愛によって支配されているのである。見方を変えればこの人生は、愛によって支配されているが故に、愚かなのだ。これは愛を知り得ない一人のブロガーによる愛の予測であるからして、その正しさは極めて疑わしい。それでも錯誤を恐れずに言うと、愛というものは小さなパラソルのようなものである。その下には僅かな空間しかない。愛のパラソルというものは、1人の人間の人生が、収りきるような大きさではない。けれども、あまりにも貧弱な人生を送る、あまりにも矮小な人物の一生は、そのパラソルの下に容易く収ってしまう。そうした人間こそが、愛に囚われる。大切な物を欠いた貧弱な人生を送っている人達は、決して多数派ではない。多数派が人生を過ごしている間中ずっと、彼ら少数派は夜も昼もお構いなしにずっと、愛だけを求めてインターネットをし続ける。人生とはそんなものではない、ツイッターとは愛を発見するための機械ではないなどと、誰かが正当な事実を述べたところで、愛のパラソルの下に埋もれた無様で小さな人生には、冬至の射線を持ってしても、外界の光は届かない。

たとえばここに、ニコニコ生放送で素敵な人を見つけた男が居たとする。彼は朝も昼も夜も、その人を追いかけ続けた。気分を害してしまわぬように、極めて無難なたわいもないコメントを付け続けた。その男は愚かにも、そうする事が、愛するという事だと信じていたのである。それこそが愛であると信じていたのである。今ここに、確かに、本物の愛があると確信して、男は毎日々々、何時間もインターネットへと向かい続けた。ところが、愛に溢れて満たされたバラ色の日々は突然にして終わりを迎える。とある年の、とある月の、とある週のとある日、いつものように真夜中に生放送をストリームしていた素敵な人は午前4時半に突然に、空腹を訴えだした。そしてマクドナルドのホームページを閲覧しだし、遂には「朝マックを食べに行く」と宣言するに至ったのである。朝マックを食べてから眠るという、人畜無害な宣言は、幾千の鉄のバールと化して、男を散々に叩きのめした。朝マックは彼の知見の及ばぬ所であり、彼の愛の届き得ぬ彼方にあった。第五世代の携帯電話で外配信をしながらマクドナルドへと向かう道中、彼が愛であると信じ続けた目に見えない透明な赤いゴム紐は、遂にその距離の限界を迎え、プチンと音を立てて切れて落ち、路上に死んだ細い糸蚯蚓のバケツリレーの連なりのように地面へと長く横たわった。おやすみ前の朝マックが、唐突に彼が信じた愛を終わらせてしまったのである。もちろんそんなものははじめから愛などではなかったのだが、彼には知るよしもない。

朝マックに「愛の終わり」という意味を持たせたのはいったい、誰であったのか。それは、朝マックを造り給うたマクドナルドではなく、「朝マック」と発言した人でもない。「朝マック」を耳にした彼である。何を語るかでも、誰が語るかでもなく、誰に向かって話をするのかが、意味を決定するのである。彼の心に重い傷跡を残した朝マックが僕等に教えてくれるものは、言葉の意味を決定するのは聞き手であるという事実である。先ほどふと思い立ってニコ生からtwitterを見に行ったら常連と同棲してたわ。だいたい、そんなもんよ。










まったく同じ発言をしても、リアルとインターネットでは全く意味合いが違う。何故ならば、相手が違うからだ。聞く人が違い、読む人が違うからだ。現実世界における自虐とは、時として自慢であり、時として侮蔑であった。そして何よりも、失敗を記憶し、次の失敗を事前に防ぐ為の機能だった。それが自虐だった。自虐は自らの手による、自らへのセラピーであり警告だったのだ。私達人間は、絶望を語る事で絶望しようとしているのではない。絶望を語る事で、絶望から抜けだそうとしているのだ。悲しみを語る事で、悲しもうとしているのではない。悲しみを語る事で、悲しみから立ち直ろうとしているのだ。もしもこの世の中に真の悲しみというものが存在しているならば、それは決して語られない。本当の苦しみは、決して語られることはないのである。他者に対して語られないばかりか、自らに対してすらも語られない。

大抵の悲しみ、大抵の苦しみ、大抵の痛み。そういったものは、誰かに対して語る事により、少しずつその傷は癒され、回復してゆく。ところが、一部の痛みや悲しみはそうではない。語られないのだ。語れないのだ。決して、書き綴ることも、打ち明ける事も出来ないのだ。それが、どうしてなのかは、わからない。ある悲しみにおいては、その原因を社会に見出す事が出来る。社会通年上、語る事が不可能な種類の悲しみであるが故に、それは決して語られない。ある痛みにおいては、その原因をプライドに求める事が出来る。自尊心が邪魔をして、語るという行為、癒すという行為、回復するという行為を妨げる。ある苦しみにおいては、無理解がそれにあたるだろう。自らの苦しみを自らで小馬鹿にし、蔑ろにし、軽蔑し、自らの苦しみを理解しようとしない浅はかさ無神経さが、自らの口を二の腕で遮り、苦しみを永遠の苦しみとして、心の奥底に保存し続ける。またある時は罪悪感がそれに相当するだろう。何かを語る事で、その痛みが僅かながら回復する事があるという知識を得ている人間にとって、書くという行為は、語るという行為は、遠回しな治療行為である。ところが、治療対象が治療に値しない、それどころか八丈島に、あるいは死罪に値すると認識されていた場合、おのずから語りは妨げられる。自らの手によって阻止される。そうやって人は沈黙していく。語る言葉を失っていく。

故に痛みはそれが深刻なものであればあるほど語られない。悲しみも、苦しさも、同じである。悲しみは隠蔽される。苦しさは遠ざけられる。絶望は軽妙な愉快さが演じる絶望としてのみ現れる。悲しみは悲しみとして語られるべきなのだ。苦しみは苦しみとして書かれるべきなのだ。絶望から抜け出す方法は、1つしかない。絶望を語る事だ。聞く耳を持つ人物に対して、絶望を語る事だ。儚く散った愛を、無惨に終わった半生を、あくなき無意味な向上心を、積み上げてきた愚かさを、鼻で笑い、馬鹿にして、罵り、口汚く憎む事で、さらに絶望しようとしているのではない。より大きな痛みを手に入れようとしているのではない。私達は、僕達は、それを破壊しようとしているのだ。全てを遮る一枚岩の蟻を回さぬ土台の上に、くみ上げられたタアジマハルを、打ち崩そうとしているのだ。積み上げられた絶望の山を、完全無欠の絶望の言葉で破壊しようとしているのだ。もしも真の絶望というものが存在しているとすれば、それは言葉が途絶える事だ。人はそれを恐れる。本能的に避けている。暇さえあれば何かを口に出そうとする。twitterで、フェイスブックで、インターネットで、枕の上で、トイレの中で。もう書き尽くして書き果てて、語り尽くして舌涸れて、言葉が出てこなくなったその時こそが、遂に訪れる終わりの日なのだ。語る気力が尽き果てたとき、僕等はでゃあでゃあ死んでゆく。

一方でこの女は、そんなこととは無縁だ。2012年の日本に生きる人々が望む全ての物を手に入れている。アラサー間近の女性であるなら、誰もがうらやむ高身長、高収入、高学歴の二枚目と言うには幾らかの無理があるにしても、素敵な雰囲気の旦那様と玉のような可愛い子供を手に入れて、素晴しい友人達に囲まれて人間性溢れる豊かな生活を送っている。完全にゴールテープを切ってしまっている。ゴールテープを切り切って、ロンドンブリッジも走り抜けている。安全圏へと到達してしまっている。地球の醜い重力圏を離れ地球の醜い重力圏を離れ、大宇宙を飛行している。だからと遙かな彼方から哀れ地を這う土民めがけて、ミサイルを撃ち込んで笑っているのだ。きゃっきゃあははと笑っているのだ。あの女というのは、マン臭いきつ子のおりものわんだーらんどというブログを書いている、マン臭きつ子という人の事である。ああ、清らかさと美しさで知られたこの僕の気高いブログが汚らわしい文字列で汚れていく。これこそ、マン臭きつ子の思うつぼなのだろう。僕はまんまとその罠にはまってしまったのだ。しかし、誰かが戦わない限り、誰かが勇気を出さない限り、誰かが不正義を告発せぬ限り、世界を覆う悪の十指は未来永劫、消えやしない。故に、この世界を愛し、そしてこの世界に愛されて生きる、愛の戦士であるところの僕は、正義の為に今まさに、立ち上がって戦うのである。それにしても、酷い。

"まん臭キツ子"の"キツ"が平仮名であったならば、まだ救われただろう。「ああ、この人は、無理をして、面白いブログタイトルにしようとして、無い頭を捻って頑張って、"マン臭キツ子"なるハンドルネームを考え出したのだろう」と完全に見切って見下す事も出来ただろう。しかし、そこは平仮名である。「マン臭きつ子」である。これが、平仮名であると、生々しい。生々しいこと、この上ない。本当に、きついんだろう、と真に思ってしまう。あまりにもリアルな臭さが頭にこびり付いてしまい、寝ても立っても剥がれない。僕はおりものというものが何であるかをよく理解していないけれど、何かおそろしいものなのだろうという事は伝わってくるし、ワンダーランドというものが何を意味するのかもわからないけれど、引換券とモンスターが大量に生息していそうな雰囲気だけは伝わってくる。そのようにして、僕の精神は、まるで崩壊寸前にまで追い詰められる。

これは、一見すると自虐である。「私はマン臭いがきつい女の子なんです。あーっはっはっはっはー」という、自虐に見える。しかし、違うのである。これは、違うのである。自虐に見せかけた、他の何かなのである。自虐という皮を被った、他の何かなのである。それが何であるかを、僕は知ってしまった。身を以て解き明かしたのである。それは、復讐劇である。「マン臭きつ子のおりものわんだーらんど」とは、復讐劇である。




このマン臭きつ子さんという人は、聞くも涙、語るも涙の、無惨な青春時代を送った過去を持つ女性である。男にもモテず、女にもモテず、友人らしい友人もなく、ろくに学問も修めず、飯を喰らっては寝、飯を喰らっては寝てを繰り返し、その合間を縫っては1人孤独に絵を描いて、青春と呼ぶにはあまりにも貧相な青春時代を過ごしてきた人間である。その幾重にも連なった失意と挫折に塗れた鬱屈の日々を繰り返す中で、マン臭きつ子という1人の人間は、他者への怨みと憎しみを積もらせ、憎悪の化身となり、生きてきたのである。しかし、彼女は、その憎悪を実際に形あるものとして行使した事は一度としてなかった。何故ならば、マン臭きつ子さんは、諦めなかったからである。夢を諦めなかったからである。どれだけ心を折られようと、どれだけ現実に虐げられようと、それでも夢を捨てなかったのである。故に彼女は、決して、復讐になどはしらなかった。周囲の人間を攻撃する事もなかったし、恨み辛みをどこかに書き綴ることもなかった。ただ周囲の人を愛し、世界を愛し、そして自らの人生を愛した。全てを慈しみ、全てに感謝し、決して何に対しても口汚く罵る事などなかった。何も憎まず、何も怨まず、一切の逆恨みとは無縁の、聖人のような日々を過ごし続けた。彼女の半生は、まるで祈りであった。敬虔な祈りであった。マン臭酸が、いやきつ子さんが、何を信じて、何を願い、何を祈っていたかについて、僕は知る事は出来ない。僕はそのように純粋で清らかな気持ちで何かを願った事は無いし、何かを祈ったこともない。そして、きつ子さんのように、自分の将来を、自分の未来を、固く信じたことがない。故にその願いというものは、僕の想像の外側にある。しかし、確かな事は、マン臭きつ子という人が、自らを信じ、そしてこの世界というものの正しさを、信じていた事である。「必ず叶う。」ピッケルに降られて死んだトロツキーの遺骸が電気信号に姿を変えて大西洋とヨーロッパを飛び越えた時、スターリンはただ呟いた。必ず叶う。然り、マン臭きつ子という人は、夢を叶えたのだろう。




具体的に、何を望み、何を願い、何を手に入れようとしたのかはわからない。わからないばかりではなく、僕の貧弱な人生経験と想像力では、予想する事すら出来ない。しかし、ここに1つの事実がある。その事実とは、現在である。その事実とは、現実である。マン臭きつ子という人の、現在である。今である。極めて希有なホワイトの、一部上場の企業に務め、6フィートに4センチメートル足りない身長を持ち、頭は切れ、ユーモアに溢れ、素晴しい人柄の旦那様と出会い、そしてやがては結ばれて、幸せな家庭を築き、可愛い子供にも恵まれた。それがマン臭きつ子の今である。マン臭きつ子の現実である。これは奇跡である。マン臭きつ子とは、奇跡の人である。おりものわんだーらんどとは、奇跡の物語である。




経済は衰退し、人心は荒廃し、社会制度も崩壊した、二流国家の我が国の、婚姻という戦場において、素敵な旦那様を手に入れるのは、素敵な女性だけである。本来ならば、そうである。マン臭きつ子のような、醜く穢く、そして薄汚れた、知性も収入も事欠いた、決して若くない人物が、素敵な旦那様を手に入れるなどという事は、不可能である。本来ならば、決して実現してはならない夢である。叶ってはいけない妄想である。ところが、マン臭きつ子という人は、いったい、どのような卑劣な手段を用いたのかはわからないが、素敵な旦那様を手に入れた。本来ならば願う事も許されないような生活を手にしたのである。そして、雌伏の時を経て、この女は遂に立ち上がったのである。復讐へと立ち上がったのである。




それは壮絶な爆発であった。我慢に我慢を重ねた長い長い永遠にも思われた屈辱の青春時代に、華々しい青春を謳歌する周囲の女性らに抱いた劣等感、溜まりに溜まって鬱屈した敗北感、奇跡を信じる僅かな心が、すんでの所で決壊を阻止し堰き止めていた憎しみの大波小波に鳴門の渦。それが一気に富士の裾野の阿蘇をも超えて、はるか彼方のインターネットで伏流水の火山灰となり突如噴出したのである。それが、マン臭きつ子のおりものわんだーらんどというブログの正体である。

あのブログは一見すると、自虐に見える。既婚女性の手による、ただの自虐の絵日記に見える。だが、しかし、違うのだ。あのブログは復讐劇なのだ。壮絶な復讐劇なのだ。彼女は、いったい誰に復讐をしているのか。それは、自らが過ごした青春を取り巻いた、周囲の女性達に対する復讐である。素敵な人達に対する復讐である。そして、今を生きる若者達に対する復讐である。マン臭きつ子という人は、自分以外の全ての人間が不幸のどん底に落ちる事を願って、あのブログを書いているのだ。




たとえば、マン臭きつ子という人は、マン臭きつ子のおりものワンダーランドというブログにおいて、こんな話を書いている。「私は大学時代に、校内で2度うんこを漏らし、校外で7度うんこを漏らした」。この話が、私達に教えてくれるものは、何か。それは、美大に通う女というものは、うんこを漏らすような人間である、という事実である。いわんや、そのような事実は無い。美大生の誰もが皆、うんこを漏らすという事実はない。しかし、イメージというのは強烈である。この、マン臭きつ子という人がブログで書いている話が、本当の事であるかどうかは、僕にはわからない。おそらくは嘘であろう。作り話であろう。ブロガーというのは例外なくただの嘘つきである。ほら吹きである。構内で2度、校外で7度もうんこを漏らし、うんこを漏らしたままでがに股で歩いてコンビニに入り、パンツを買い、トイレを借りて履き替えて、逃げるようにして帰宅したという話が、本当にあった事なのかどうかを、僕らは確かめる術をもたない。確かめる術が無いのをいいことに、ブロガーは平気で嘘をつく。校内で2度、校外で7度というのは、面白い話をしようと盛った結果の数字であり、本当は、校内で1度、校外で3度くらいのものなのかもしれない。あるいは、そんな事実は一度としてなく、全てが作り話であったのかもしれない。

そうであるにしても、僕らの脳裏には、美大生という生き物はうんこを漏らしながら歩く生き物だ、という間違った事実(あるいは真実)が刻み込まれてしまったのである。それこそが、マン臭きつ子の思うつぼである。きつ子という人は、周囲の学生達がにこやかに笑い、幸せそうな青春を過ごしているのを見る度に、そういった人達が地獄に落ちる事だけを願って生き続けてきた。攻撃し、叩きのめし、失墜させる事だけを願って生き続けていた。しかし、あの頃のきつ子には、復讐するにしても、手立てが存在していなかった。女学生とはマン臭のきつい醜悪な生き物であると世間に伝えたならば、女学生であった自らも、その被害からは逃れられない。美大生はうんこを漏らす生き物であると世間に伝えたならならば、ダメージを受けるのは自分である。故に、その牙は抜かれ、その爪は隠された。その刃は抜かれる事なく、引き出しの奥へと仕舞われた。

しかし、今日のマン臭きつ子はまるで違う。遂に全てを手に入れたのである。この世の全て、望むもの全て、幸福という名の幸せを全て手に入れ、安住の地へと辿り着いたのである。安全圏へと逃げ込んだきつ子は、後ろを振り向き、銃を手に取り、全てのものを撃ち始めたのである。女は臭い。女は汚い。女はうんこを漏らす。そういったネガティブなイメージを世間に広める為に、遂にはブログを開設し、一見すると自虐に見える形で、全ての女性達を攻撃する、ネガティブキャンペーンに打って出たのだ。

その攻撃の対象は、ただ女性だけには留まらない。その刃の切っ先は、男性に対しても同じように向けられているのである。女性のイメージを損ねる事で、世間の男達を、不幸のどん底に突き落としているのである。たとえば、この広い世界のどこかには、絵の上手な女性に萌える、という特殊な性癖を持つ男性だって居るかもしれない。彼らに言わせると、インターネット時代における絵とは、ただの脆弱性である。ハイテク社会の現代において、女性を褒めるという行為は困難を極める。当時九州大学の助教授であった岡山は、映画で見た田中絹江の美しさを語る後の伴侶に対して「あなたには色がある」と言って口説いたそうである。しかし現代ではそうはいかない。敵はフルカラーとフォトショップである。下手に美しさを褒めようものなら、その言葉はまるで瞬時に、舌先三寸の嘘へと化ける。世界は美しさで飽和している。現代という地獄では、ハイパーネットの高速道路で世界の隅まで繋がった世界全人民の英知の先が恋敵である。顔を褒める事も、唇を褒める事も、耳の形を褒めることも、また衣服を、髪型を、靴を、肌着を、あるいはその体型を褒める事すら不可能である。全ては嘘で血塗られる。

そのような時代において、芸術とは人に最後に残された脆弱性である。中でも、絵というものは完璧な脆弱性である。これが音楽であればそうはいかない。オーボエを吹いている女性の胸を揉みながら「美しいね」などと言おうものなら、邪魔だと肘鉄砲を喰らう結末である。しかし、である。絵を褒めながら胸を揉めば、確実にやれる。芸術とは、そういうものなのである。セックスの為に存在しているのである。私はかつて、美大というところは、特別な才能を持った人間が行く所なのだと思っていた。美大生というものに、畏敬の念を抱いていたし、きっと素晴しい人達の集まる場所なのだろうと、なんの根拠も無しに、思い込んでいた。しかし、実際は、まるで違ったのである。2ちゃんねるというアンダーグラウンドなホームページの学歴板というスレッドによると、美大というのは、頭の悪い奴らが行く所なのだ。言うなれば、少年院や、ホームレス収容所のような所であり、頭が悪くて、一般社会では通用しない、社会ではまったく通用しない、レベルの低い脳味噌しか無い連中を、格納して、隔離して、収容するのが、美大という組織なのである。インターネットにそう書いてあったので、僕はインターネットを信じる。この人生において他に信じる事が出来るものはもう残っていないからだ。




インターネットという場所は、誰が読むかを制御できない場所である。誰に向かって喋るかを制御出来ない場所である。故に、インターネットにおいて何かを語るという行為は、肉じゃがのようなものである。肉じゃがは人にとってはおいしいけれど、玉ねぎに含まれるオレイン酸を消化できない犬にとっては毒物であり、醤油の塩分を処理できるだけの腎臓を持たない猫にとっては毒物であり、ジャガイモに含まれるオレイン酸を消化できない牛にとっては毒物である。何を語っても、どのように語っても、あるいは何気なくそっと触れただけでも、異なった文化を持ち異なった空気を吸う異なる生命体、全く異なる生き物を、一つの電気信号で纏め上げたインターネットという世界においては、たとえその意図がなかったとしても、全てが攻撃になってしまう。ネットで語られるくだらない話の全ては、その全てが刃であり、鎚であり、矛である。どんな優しい言葉であっても、その正体はアタックであり、どんな素敵な逸話であっても、皮を剥がせばエマージェンシー。血で血を洗う血洗い池の死闘に向かって投げられた鋭利な刃物の包丁である。そんなつもりはなかったと彼らは白を切るかもしれない。だまされてはいけない。彼らだってわかっていたはずだ。




はたして夢の中でも魔されながら懸命にブログを書き続けている僕は一体何を攻撃しているのだろう。一見するとそれは自分以外の何物かを攻撃しているように見える。けれどもその実態は自らに対する攻撃である。自らに対する攻撃が自らを破壊し、自らの全てを焼き尽くし、自らの全てを滅ぼし、自らを死に至らしめる事だけに期待を抱いて僕はブログを書き続けているのだ。ブログを1文字書く度に、そこに現れるのは書かれたブログではなく、書かれなかったブログが今日も書かれなかったという事実である。ブログを1つ投稿する度に具現化するものは、その日そこにブログが投稿されたという事実ではなく、今日もまたこの場所に決して投稿される事のないブログが投稿されなかったという事実である。昨日語られなかった出来事は今日も語られず、今日語られなかった事実は明日も語られない。

ブログを書き続けてきたのは誰かを愛するためで有り、誰かに愛されるためだったかのように思える。そしてブログを書く事で明らかになったのは僕にはそれが不可能であるということ。同じようにブログを書き続けてきたのは自らが生きるためであり、一日に一度あるいは二度僕のブログをアクセスして読んだ誰かを生かすためだったのだろう。そしてブログを書き続ける事で明らかになったのは、僕にはそんなの不可能だってこと。実のところ、そんなことくらい最初から全てわかっていて、これは全て自らを破壊する為の、自らに対する復讐だったのだろうと今では思う。積もり積もった作為的なブロガーとしては標準的な小さな積み重ねの事実の山が、ブログで生きている僕を何れは、いや既に引き裂いて、僕はブログで死んでいく。