2018年4月26日木曜日

国分太一の福島と、パブロ・エスコバルの慈善事業。

山口達也が強制猥褻で送検されるや否や、国分太一がテレビの生放送で福島を語り始めた。これが日本の慈善事業であり、日本のマスメディアである。

慈善事業を行った著名人の中に、パブロ・エスコバルという人物がある。慈善活動によりエスコバルは名声を手にした。エスコバルは麻薬王でこそあったが、エスコバルは人民の救世主であり、エスコバルは人民の英雄であった。エスコバルは自らの身に 不祥事が降りかかる度に、慈善活動によって築き上げた名声を、自らの盾として用いた。エスコバルにとっての慈善活動とは、盾であった。慈善活動は彼にとって、暴力と同じくらいに重要な盾でありつづけた。

我が国においても、阪神大震災の時に山口組が、というのはよく語られる話である。慈善事業は悪事を働く者にとって最強の盾の一つであり、突如として身に降りかかる不祥事をおさめる為の最大の武器である。慈善事業とは人が平時に築くことが出来る城であり、石垣であり、堀である。慈善活動とは、ダメージコントロールなのだ。

であるからと言って、慈善活動を行うものを指して、「あいつは盾を積み増ししているだけだ」というのは間違いである。残念なことに、どの国の政府も、その巨大さや様々な制約が故に、多くの場合、常にどこかが不完全である。世界中のどこにでも、誰かの善意なしに、強いて言えば慈善活動なしには、成り立たない人々の暮らしがある。

震災の例をあげずとも我が国は、第2次世界大戦後、アメリカの慈善活動によって立ち直った。たとえばそれが、アメリカにとって、盾を積み増しする為の行為にすぎなかったとしても、それはそれ、これはこれである。純粋なる慈善活動などというものは存在しない。誰もが利益の為に生きている。

では、歓迎すべき慈善活動、あるいは見過ごすべき慈善活動と、ただの盾の積み増しである慈善活動、ダメージコントロールの為の邪悪な慈善活動を見分けるにはどうすればいいのだろうか。それは、不祥事が起こるのを待つ事である。気分の良い話しではないが、不祥事が起これば、それが慈善活動であったのか、あるいは私利私欲の為に盾を積み増していただけなのかがわかる。

真の慈善活動家は、身に降りかかる不祥事に、慈善活動で得た名声の貯金を用いない。自らが窮地に陥った際に、それまでの慈善活動に関して触れ回らない。



さて、国分太一はどうか。
いえ、TOKIOはどうか。
正確には、ジャニーズはどうか。






明確である。

メンバーという得体の知れない呼称をマスメディアに強制するジャニーズ事務所は、山口達也の不祥事が起こるやいなや、国分太一をテレビの生放送に送り込み、「福島が」「福島が」と得意気に繰り返させた。

ジャニーズにとっての慈善活動とは盾であり、TOKIOにとっての福島とは盾である。彼等がこの日の為に一生懸命築き上げた、自らの私利私欲の為に積み上げた、最も使い勝手のよい、不滅の無敵の盾である。

不祥事が起こるや否や福島を、自分達の身を守るための無敵の盾として利用するジャニーズ事務所は、我が国にとって最も忌むべき存在の1つであり、言うまでも無くTOKIOは、福島を自らの保身の為に都合良く利用する、福島の、そして私達日本国民の敵である。