2005年1月1日土曜日

アバカム



////アバカム
////
////ドラゴンクエストシリーズに登場する呪文。
////この世のあらゆる扉のカギを開ける呪文。
////はてなダイアリーより。



日が明けた。あるいは暮れようとしている。
それとは無関係に僕の一日が始まり、あるいは終わろうとしている。

なんとなく、ふと、さいなまれ、ブロックブログのトップページにアクセスし、更新されたブログ一覧にあるタイトルを眺め、そこから3つ4つを適当にクリックして読んでみた。
曙が負けたとか、バイクが走ったとか、マツケンがサンバしたとか書いている。そのような事柄に興味が無いと言えば嘘になるが、興味が無い。どうしてか悲しい。


それでもめげずにウェブサーフィンを続けていると、
「今年は変化の年だ」とか
「守りから攻めに転じる」とか、
「今年こそは生まれ変わる」とか、
「去年は探す年今年は掴む年」とか、
「頑張る年ではなく結果を出す年」だとか書いているのに行き当たった。

彼らは変化というものを、宣言するだけで起こせると思っている。
変わるという事はそんな簡単なものではない。
甘い。甘すぎる。

変化というものは目に見えないものであり、文章にも出来ないものなのである。それをブログに書くなどというのは、ブログでしかない。
心に誓うなどというのは、誓いでしかない。


変化とは目に見えず、音も立てず、ゆっくりとゆっくりとにじり寄り、それが人の目に触れた時は変化などではなく、そのものとなっているのである。

人は黒雲が雷雲と化して稲光を発する一瞬を持って変化と呼ぶかもしれない。
しかし、それは間違っている。
水滴がベランダの鉄窓に生まれ、夜明けと共に蒸発し、それがふわふわと居場所を見つけられないままに空気中を漂い、やがては白雲に居場所を見つけ、その白雲が黒雲へと変わる様が変化というものであり、雷雲がゴロゴロと音を立てて稲光を発するのは変化でもなんでもない、ただの雷である。
一滴の水が稲光になるまでの道というのは、細く長く何の遮りも無い平凡で平坦な道として続いており、その様は見えない。それが、変化の正体である。

ドラゴンクエストに、アバカムという呪文がある。
と書くと、あまりにも唐突で繋ぎ文章に失敗したかのように見えてしまうので、書かない。

ドラゴンクエストに、モシャスという呪文がある。
あ、やっぱり



ドラゴンクエストに、アバカムという呪文がある。
扉を開ける呪文である。鍵のかかった扉を開けて世界へと飛び出す事が可能となる呪文である。どうしてか悲しい。
これさえ覚えてしまえば、勇者が鍵を順番に手に入れて一歩一歩階段を進み、やがては魔王を倒すなどというストーリー筋書き、過去のしがらみの全てを無視して好き放題に世界を飛び回る事が出来る、魔法の呪文である。

しかしながら、鍵を手に入れるまでにこの呪文を覚えるというのは物凄く大変である。
鍵が無いからして、いける場所がほとんどない。ほとんどない狭い狭い行動範囲の中で、延々と敵を殺し続けてレベルを上げるという行為をアバカムを覚えるその日まで繰り返さねばならぬ。
その、アバカムを覚える為にスライムをおおがらすをキャタピラーをアルミラージを殺し続ける作業こそが変化である。

「世界を好き放題に飛び回ってやる」
との強い信念の元で、1時間10時間100時間、あるいは1000時間を耐え抜いたものだけが、その手で変化を掴み取った者であると言えよう。



それがアバカムであるならば楽だ。
アバカムは魔法使いであれば必ず覚える。
Lvが47か45か、あるいは48になれば覚える。

しかし、人間が望む変化とはアバカムではない。
学業であり、色情であり、金であり地位であり名誉であり、自分自身である。

それらを追い求めて変化という長くて平坦な道のりを歩いたとしても、アバカムを覚える事が出来るとは限らない。アバカムを覚える事が出来るのは魔法使いのみであり、戦士や武道家や勇者や僧侶や遊び人やクリフトやものまねしなどはアバカムを覚える事は出来ない。
そして、人は自らが魔法使いであるのか、そうでないのかを知る術を持たない。



僕はアバカムを覚えたいと強く思う。
家人が出払わないと灯油を入れられないのとか、弟と弟の友人の声を階下に聞きながら体調管理に失敗してビニール袋にしゃがんだりとか、18時間09分で黒くなったバナナの半分とか、ウォークラフト3TFTのCDキーが通らずに何度も何度もCDトレイを開閉して過ごすのとか、それら一切そんなのはもうごめんである。
つまりは変わりたいと強く思っているわけであり、変わるのだ。

鍵のかかった扉の向こうにある全てを見たい。
鍵がかかっている扉の前、その全てに立ち、ガチャリと回したいのだ。
レゴとゾイドと舶来船の並んだ廊下を抜けて掘り炬燵へとたどり着いてモノポリーに興じたり、「初夢は君の夢だった」などと愛人に嘘をついたりもしたい。酒に酔って数の子の粒を数えたり、栗金時を目の前に合衆国大統領!などと笑えないギャグを飛ばしたりもしたい。サイクリングをしては自動車に文句をいい、ドライブをしては自転車に物申したい。曙だってマツケンサンバだって戦乙女ヴァルキリーだって見てみたいし、ニュースステーションのオープニングムービーが今はどんなものになってるのかとかも物凄く知りたい。音信不通の相手から来た年賀状に潤んで「俺も歳を取ったもんだ」とか思いたいし、来るお歳暮来るお歳暮全てがハムでうんざりとかもしたい。誰かと日が暮れるまで昔の事を笑ってみたいし誰かに好きだと言ってもらいたいし誰かを想いたいし誰かに認められたい。自分自身と昔の事を語り明かしたいし自分自身に好きだと言ってもらいたいし自分自身を愛したいし自分自身に認められたい。

つまり僕は変わりたいと思い変わろうと思っているわけで、その為に、幾億のスライムやおおがらすやドラキーやバブルスライムなどを殺し続ける只管の、単調で退屈で憤懣やるかたない日々を耐え抜く覚悟であり、耐え抜く決意であり、耐え抜く。


僕自身は真性引き篭もりであり、魔法使いでは無い。
然り、アバカムを覚えられぬかもしれぬ。
しかしながら、それは重要ではない。
信じて思い希望を抱くのが人間というものであり、僕は変わる事が出来ると信じて思い強い希望を抱いて変わるのだ。1年先10年先100年先、あるいは1000年先かもしれぬその時に、人生というもの青春というもの人間というものの全ての幸せがそこにある事を信じて。