2005年1月14日金曜日
猫のいない世界
轢死している猫を見て
「知ってる?猫はバック出来ないんだよ。馬鹿だねえ」
としたり顔で言う。
うんや、それは違うと、横の男。
「猫は車が迫ると屈みこんでじっとライトを見つめるんだ。馬鹿だから」
なるほど、馬鹿だ。
ああ、猫は馬鹿だ。
馬鹿だ、うん。
うん、馬鹿だ。
ははは。
ははは。
と、全てが丸く収まる訳である。
そういうのは、どうかと思う。
バック出来ないから馬鹿なのか、車が迫るに及んでライトを見つめるから馬鹿なのかはっきりさせるべきだ。その場ではっきりさせないと、二度とはっきりさせる機会は訪れない。それはよくない。はっきりするまで、やりあうべきだ。
「2人とも答は同じなんで、争いは不毛っすね~」だとか、
「考え方は少し違うけど結論は同じだって事で。」とか、
そういうのが多すぎる。実によくない。これはいけない。
やりあうべきだ。
徹底的にやりあうべきだ。
顔を殴り、腹を殴り、足を蹴り、つま先を踏みあうべきだ。
電気アンマをかけては電気アンマをかけかえされるべきだ。
右の目の玉をえぐり出して左の耳に押し込むべきだ。左の耳に押し込んだ右の目の玉に押し出されて飛び出た左の目の玉を、右目の場所にはめこむべきだ。
たんこぶが出来るまで殴りつけて、そのたんこぶをまたなぐってたんこぶにたんこぶが出来るくらいまでやりあうべきだ。徹底的にやりあうべきだ。
一族郎党まで巻き込んで、皆を破滅に追い込むべきだ。
やりあうべきだ。やりあうべきだ。やりあうべきだ。
徹底的にやりあうべきだ。
はは、はははじゃない。
また、今度呑みにでも、うん、あはは、じゃあ、お先、じゃない。
やりあうべきだ。やりあうべきだ。徹底的にやりあうべきだ。
だいたいからしてそいつは敵だ。
敵じゃないなら敵にしろ。
敵に出来ぬなら敵だと思え。
敵だ。敵だ。そいつは敵だ。
自分が1だと思っていても、相手も1と言うならば、
「違う!2だ!」と言い張るべきだ。徹底的に言い張るべきだ。
そいつを否定する事だけが、今日から君のアイデンティティだ。
1じゃなくて2である根拠をでっちあげ、徹底的にやりあうべきだ。
でっちあげであるからして、まともにやりあったら負ける。
そういう場合は味方を呼ぶのだ。
100人200人300人と呼び寄せて、全員に「2だ!」と叫ばせるのだ。
だいたい世界は多数決だ。多い方が勝つ。
相手が、「ああ、もーじゃあ2でいいよ。ハイハイわかったわかった」
などと根を上げたなら、徹底的にやる時期だ。
顔を!体型を!衣服を髪を!人格を!性別を!素肌を趣味を!相手の全てを否定しろ!笑え!罵れ!嘲笑え!徹底的にやれ。徹底的にだ。
はいはい、よかったね。おめでとう。
などと立ち去ったならば、すぐに追え!。追いかけろ。
地の果てまでも追い詰めて、徹底的にやるべきだ。
100人200人300人を引き連れて、追いかけ追いつきまわり込み、相手を囲んでやるべきだ。徹底的にやるべきだ。なあなあはよくない。やるべきだ。立ち直れないように相手の全てを奪うべきだ。やりつくせ!焼き尽くせ!徹底的にやるべきだ。
やったもん勝ちだ。最後に立っていた奴の勝ちだ。
引き篭もらせろ。社会的に抹殺しろ。
消し去れ。消し去れ。やるべきだ。徹底的にやるべきだ。
徹底的にやらないと、いつかそいつは立ち上がって徹底的にやりにくるぞ。叩きのめしておけ。勝てる時に全部取るのだ。奪い取れ。徹底的に奪い取れ。叩きのめしてしまえ。徹底的に叩きのめしちまえ。
と思うのだけれど、僕は真性引き篭もりであるからして、轢死した猫を見て「知ってる?猫はバック出来ないんだよ。馬鹿だねえ」などとしたり顔で言う連れ合いはいないので、徹底的にやりあう機会などなく、徹底的にやるべきだ!などと言いつつ、徹底的にやっているのは引き篭もる事くらいであり、ちゃんちゃらおかしい。
ここで、'おかしくもあり悲しくもあり。'などと締めてしまうと、悲しくなるので、書かないし締めない。
それにしても、この所パソコンがよく動かなくなる。3時間も動かしていればかならず動かなくなるにも関わらず、ブログを書いている最中に限って物凄く好調なのはどうしてだ。
「ブログを書いているとパソコンが落ちて文章が飛んだから今日の投稿は無し。うわー、ショックで物凄い落ち込んでるよ。誰かなぐさめて。ついでによろしくやろうよ」などと書きたくてうずうずしているのに、どうしてだ。まったくもって理不尽だ。突然電源が落ちて再度スイッチを入れてもうんともすんとも言わなくなるべきだ。ブログを書いている最中にそうなるべきだ。出来損ないのパソコンめ。僕にそこまでしてブログを書かせたいか。というか、いや、待てよ。ははーん、このパソコンも僕のブログを読みたくて読みたくて仕方が無いのか、などと想像したらいい気分になってきた。凄いぞ僕は。僕は凄いぞ。物凄い。パソコンまでを虜にするスーパーブロガーだ。古畑広之進もびっくりだ。
あの男が言っていた事が正しいならば、つまり、バック出来ない事が馬鹿であるならば、「ちゃちゃっとシンプルに書こう」と心に決めたにも関わらず、やりたい放題やっているともはやバック出来ない所まで書き進めてしまった僕も馬鹿だという事になる。
しかし僕は馬鹿ではない。
スーパーブロガーだ。
よって、あの男が言っていた事は間違いである。
人間はバックというやつが出来ない。
バックするように見せかけて、そいつは踵を返しているだけだ。
自分が進んできた道を間違いあったと認めずに、「いやー、寄り道寄り道、はは、いい経験になった。うん、とても楽しかった。これは今後に活きてきそうだぞ~。」などと前へ進んでいるふりをしているだけだ。経験になどなるものか。
「いい経験だった、いい経験だった、俺は物事ってものがわかっているんだ」などと達観ぶって棺桶だ。直行だぞ。「死ってのはね、」などとその段階に及んでも語ってろ。語ってればいいさ。語っていれば。
では、という事である。
迫る光を屈み込んで見つめるから馬鹿だ、というのが一見すると正解であるかのように思えるのだが、僕はそれも違うような気がする。
巨大で眩しいものが身に迫れば、その正体が何であるのかを確かめようとするのが生き物というものである。「はいはい、どうせ車でしょ。車、車」などと澄ました顔で足早に立ち去るのが正しいのかもしれない。
しかし、物事を直視せずに決め付けて通り過ぎてばかりでは、大事な事にも気がつかず通り過ぎ、全部通り過ぎたあとで、「人生ってのは退屈だ」という事になってしまう。足早に駆けておいてその言い草は無い。
これは、即ち。
猫というやつは馬鹿ではないような気がする。
その全てをしゃんとして、バックはせずに、言い訳をして下がる事もせずに、迫り来る現実の大きさに驚く事もなく、しっかりと目を見開いてそれを見つめ、まあ時として轢死するというのは、馬鹿というよりは'美しい'という言葉が相応しいものである。
つまり、猫というのは美しいのである。
なるほど、これで筋が通った。
ブログに猫の画像を載せるとアクセス数が倍になるとかいう逸話なども、美しさというものに惹かれる人間の性からすれば当然であろう。世間的には猫は馬鹿な生き物としてではなく、美しい生き物として知られているのである。
しかし、それも正しいとはいえない。
美しいのは猫ではなくて、猫の轢死した姿であり、その生き様である。
たった一度しかない人生の中で、退かず下がらず目を背けぬを貫いたその死に様である。101回死んだ猫などは、醜くて醜くて仕方が無い。「また生き返るのかよ!」などと下衆な突っ込みが関の山であり、美しきには程遠い。
バックせず、見過ごさず、巨大な光に立ち会っても逃げる事無く引く事なく、その美しさの美しさが繰り返され、日本中の猫という猫が轢死し、国中が轢死体に埋め尽くされたならば、この国も少しは美しく、住み良くなるのであろうと思い、猫という猫が轢死して猫のいなくなった世界に思いをはせて、少し望んで筆を置く。