2005年2月15日火曜日
カッターナイフで
レゴブロックを削っていた。
うまい具合に家には一人。これ幸いと、レゴブロックを削っていた。
レゴブロックを削っていたというだけであれば、どこにでもいる健やかな小学生の穏やかな午後といった様相であり、ありふれた平和で平凡な日常の一こまだ。
しかしながら、僕がレゴブロックを削っていたという文章をブログに書いているという事は、その後に平和で平凡ではない日常の一こまが待ち受けていたという事である。
問題の所在ははっきりしている。
テレビがついていた。いや、テレビをつけていた。
生き物地球紀行を見ながらレゴブロックを削っていた。
銀色のゴリラがよろしくやりたい、よろしくやりたいと茶色のゴリラを追い回していた。
茶色のゴリラが逃げ疲れて銀色のゴリラに肉薄された時、カッターナイフが人差し指を貫いた。血がドバドバと流れ出し、レゴブロックとソファーを染めた。
ひとしきり嗚咽した。
そして、慌てた。
これはまずい、と。
そのソファーは新調したばかりで、新調したクッションが乗っていた。
なにもかもがいやになりながら親指と中指で人差し指を拘束するのに気を取られている間に、それらに赤が付いており、これは嗚咽じゃすまないな、と本能的に察知した。
事の重大さに落ち着きを取り戻した僕はガムテープを取りに行き、人差し指に巻き付けた。そしてそのままソファーまで戻り、ソファーの赤い部分にガムテープを丁寧に貼り付けてゆき、どこから見ても赤い部分が見つからないようにした。それから、クッションの赤い部分にガムテープを貼り付けて、どこからどう見ても赤い部分が見つからないようにした。
誰かが訪れる前に全てをぬかりなくやり遂げた事に満足し、カッターナイフでレゴブロックを削った。けれども指が痛くてうまく削れず、カッターナイフを諦めてレゴブロックを綺麗に片付けて、一人でテレビを見ていた。
そうしていると、家人が帰ってきた。
嗚咽せず泣いて、こっぴどくしかられた。
「なんでガムテープ!」
などと言われながら病院へ引きずられた。
僕は僕が残した痕跡を跡形もなく片付け消し去り、証拠という証拠の全てを隠蔽していたにもかかわらず、どうしてか、それらは全て、すぐにばれた。
これは誇るべきエピソードだ。
証拠隠滅を成し遂げたにもかかわらず、全てがすぐにバレたという事は、僕が裏表の無い嘘のつけない人間である事を指し示しているわけであり、どこに出しても恥ずかしくないブログ投稿である。少しばかりの誇らしさはさておいて、話を進める。
カッターナイフでレゴブロックを削っていたのには、理由がある。
リユウと書いてワケと読ませたいとかそうゆう意図はまったくなく、純粋にカッターナイフでレゴブロックを削っていた理由を書こうというだけの事である。
レゴブロックを削っていたのは、レゴブロックを削りたかったからである。レゴブロックを削りたかったのには、理由がある。
リユウと書いてワケと読ませたいとかそうゆう意図はまったくなく、純粋にレゴブロックを削りたかった理由を書こうというだけの事である。
レゴブロックを削りたかったのは、レゴブロックに弟がマジックで線を引いたからである。
レゴブロックに弟がマジックで線を引いたのに、理由があるかどうかは知らない。知らないが、数字やら矢印やらカタカナやら記号やらがそこらじゅうに書かれており、僕はそれを消したかった。弟が書いた痕跡を全て消してしまおうと、カッターナイフでレゴブロックをひたすらに削った。
マジックで数字や矢印やカタカナが書き入れられたのは、それよりも随分と前の事である。僕はそれに猛烈に抗議したのだけれど、兄である僕が我慢すれば全てはうまく治まるのだと指摘された。
その通りだ。
波風は立てたくない。
僕は全てを飲み込んだ。
けれども、レゴブロックで遊ぶ度にそれらは僕の目に入る。
一人で「ずがしゃーん」とか「きゅいーん」とかくぐもっていたいのに、マジックで引かれた弟の痕跡がそれを許さない。僕はそれが嫌で嫌で、それをずっと抱えたままで、その機会をうかがっていた。
僕はずっと消したかったのだ。
僕の世界に入り込む、僕以外の痕跡を。弟を。
そしてそれは訪れて、こっぴどく叱られた。
けれども、今思えばあれはよかったんだ。
とても幸せな事だったんだ。
だって、そうだろ。
こうやってブログに書けるのだから。
多くのブログが日記と時事の日常で構成されているのに、僕にはブログに書ける日常が無い。テレビも無い、ラジオも無い、風呂なんて数年入ってない。出社も電話も飲み会も無い。書ける事など何も無い。
いや、僕にだって日常は存在するんだ。
けれども、それらはエントリーにはなりっこない。
だって、インスタントコーヒーの瓶に入れた札とコインを夜な夜な指折り数えては、DOTA allstarsを買い戻すべきかどうなのか真剣に悩みながらオークション統計ページをクリックしているとかそんな事、ブログに書けやしないないだろ。
人間ってのが日常を生きていると、悲しいこと、嬉しいこと、悔しいこと、つまらないこと、そういうのがいっぱい通り過ぎて、言いたい事、書きたい事は溜まって行くもんだ。
真性引き篭もりブロガーの日常というのはそれとはまったく違う。
悲しいこと、嬉しいこと、悔しいこと、つまらないこと、そういうのがいっぱい通り過ぎて、言いたくない事と書きたくない事、それに見せたくない事ばかりが溜まって行く。
その中でブログを書く。
書く度に「書けた」と安堵する。
うまく書けた時はうまくいったと思い、
うまく書けなかった時はうまくいかなかったと思う。
その両方に共通しているのは、もうこれ以上のものは書けないだろうという、劣化し続ける自分と自分の文章への正当な眼差しである。
うまくいった時ほど、あとは落ちる一方だと恐ろしくなり、読み返すのも、コメントを見るのも、同じブロックブログに開設されたブログを見に行くのも怖くなる。駄目な投稿はF5連打してもへっちゃらなのに。
手持ちのカードは増えないのに、手持ちのカードを切ってゆく。
これがババ抜きや大富豪であれば、僕は幸せ者だろう。
無くなったら勝ちなのだから。
けれども、これはババ抜きでも大富豪でもなく、ましてやDOTA allstarsでもない。切れるカードは既に無い。しかしゲームは果てなく続く。
それすら全て尽きたならば、僕は真性引き篭もりでは無くなり、同時にブロガーでも無くなるのだろう。
「それも悪くは無いな」
と、ふと思う。
アクセスしてくれる人がいるという事実や、自分が真性引き篭もりではなくブロガーであるという恍惚、寄せられるコメントやメールといったものは嬉しい。
だが、それがなんになるというのだ。
真性引き篭もりをやめて、ブロガーをやめて、DOTA allstarsを買い戻せばアクティブで刺激的な日常が戻ってくる。そっちの方が大事なんじゃないか、って。
だけど、そんなにうまい話は無い。
ゲームが下手な僕にとってのDOTA allstarsというものは、敗北と絶望と失望を連れ添わずには遊べない代物なのだから。それと比較すると、ブログというのは本当に素晴らしい。
僕がブログを投稿すると、その真意を知るのは世界中でただ一人。
それはとてもいい優越感だ。
化け物の正体を知っているのも、透明人間の正体を知っているのも、太陽の正体を知っているのも僕一人だ。世界でただ一人、特別な人間だ。たった一人、ただ一人。
喧噪から離れて投稿ボタンを押す瞬間だけが僕が僕を真性引き篭もりである僕から世界でたった一人の特別な僕へと変化させられる時であり、その瞬間だけが一人の僕を癒してくれる。
だから僕はブログを書く。僕を満足させる為。
書いて、書いて、書き続ける。
カッターナイフで。