2005年2月19日土曜日

シューティング脳の恐怖



壁際に立たされて、5メートルの向こう側からテニスボールを投げつけられ続ける事を、喜び進んでやる者は無い。
当たり前である。
そんなもの、楽しくない。



ところが、そんな当たり前の事すらわからぬ人間が世の中にはいる。
それがどのような人々であるのか調べると、すぐに答が見つかった。

彼ら、つまりは当たり前の事すらわからぬ愚かな人たちというのは、皆が皆してゲーム好きであるという事が判明したのだ。彼らは日々プレイするゲームによって、なにもかもを破壊され、脳みそぱっぱらぱーな廃人になってしまい、当たり前の事すらわからぬ哀れな人となってしまっていたのだ。



そう、世に言うゲーム脳である。
そしてもう少しそれを調べていると、そのような人たちは皆シューティングゲームというものをやっているという事が判明した。

そう、当たり前の事すらわからぬ彼らは全員シューティング脳であったのだ。
まことにおそろしい。
これには、恐怖を感じる。




シューティング脳に汚染された人々は口を揃える。
「STGって、面白いのにどうしてマイナージャンルなんだろう・・・」
シューティング脳に汚染されておらず、ゲーム脳も遥か彼方な健やかで育ち盛りの僕のような若人ならば0秒を待たずに回答出来るような事を疑問に思い口を揃えるシューティング脳患者。
なんとも無念だ。
症例として、間の抜けた顔文字を連発するに至る場合まであるという。
少子化の国の貴重な若脳が、若脳がまったくどうして無念でならない。
無念だ。
ああ。



面白くないからマイナージャンルなのだ。
彼らはそんな事もわからぬのだ。
シューティング脳に汚染されていない人間は、シューティングゲームを面白いと思わないからマイナージャンルなのだ。シューティング脳に汚染された人間だけが、シューティングゲームを面白いと思えるからマイナージャンルなのだ。



シューティングゲームが面白くないのは当然である。
少し考えればわかるいや、少しも考えなくてもわかる事だ。


シューティングゲームというやつは、敵が弾を撃ってくる。
物凄いいっぱい敵が出て、物凄いいっぱいの敵が、皆が皆してプレイヤーを目掛けて弾を撃ってくる。嫌がらせとしか思えない。いや、事実として嫌がらせなのだ。

普通の人間にとってのシューティングゲームとは、物凄いいっぱい出てきた敵が撃つ物凄い物凄いいっぱいの弾丸からひたすら逃げ回る罰ゲームでしかない。
シューティングゲームを壁際に立たされて5メートルの向こう側からテニスボールを投げつけられ続ける事で喩えるならば、壁際に立たされて5メートルの向こう側からテニスボールを投げつけられ続けるである。


「どうして・・・」
じゃないよ。もう手遅れだシューティング脳。
「どうすれば・・・」
じゃないよ。もう手遅れだシューティング脳。
そんなものが面白いわけがない。
そんなジャンルがメジャーになるわけがない。



シューティングゲームを遊んで面白いと思うのは、シューティング脳に汚染された特別な人達だけなのだ。
汚染されていない普通のゲーマーの中にも話題騒然となるようなシューティングゲームが登場する度に興味津々とプレイする人間もいるのだが、普通の人間がシューティングゲームをしても面白いなどとは毛頭思わないので、
「思わず見とれちゃうよな絵面だね」
「素晴らしいシステムだね」
「見事な完成度だね」
「面白そうだね」
「凄いね」
「gg」

で立ち去るのだ。
デパートの試食状態なのだ。
しかしながら、汚染されていない人間がシューティングゲームに「良いゲーム」という肯定的評価を下す事は間々ある。

それは、面白いとは思っていないものの、ゲームの造りとしては認める為に「良いゲーム」という評価を下すのであって、シューティング脳患者の言う「良いゲーム=面白いゲーム」という感想とはまったく異質のものである。
汚染されていない人間にとっての名作シューティングゲーム、例えば斑鳩であるとか、怒首領蜂であるとか、グラディウスVであるとか、ボーボーダウンであるとかいったものは、
「素晴らしいゲームであるという事は理解出来るが、面白くない」
というものであり、面白くないものに金を出すのは羽振りの良い酔狂だけである。



シューティング脳なシューティングゲーマーの恐怖は、シューティング脳に汚染されていない一般大衆がよく出来たシューティングゲームを素晴らしいゲームであると評価しているのを勝手に解釈し、「プレイすればみんな面白いってわかってくれるんだ!」と集団で駆け抜けてしまっている点にある。




例えば、FPS信者なFPSゲーマーは、
「酔う人は楽しめない。技術も、必要。」
とはっきりとFPSを面白いと思わない人間の存在を認めている。

RTS信者なRTSゲーマーも、
「物凄く忙しく、大変な技術が必要。普通は、勝てない。」
とはっきりとそれを認めている。

RPG信者なRPGゲーマーであれば、
「主人公が、勝手に喋る。時間が、かかる。」

ネトゲ信者なネトゲゲーマーであれば、
「チャットが、うざい。たのしく、ないよ?」

MMO信者なMMOゲーマーであれば、
「時間が、必要。ほんとに、やるの!?」

エロゲー信者であれば、
「ちんこが、必要。エロいよ」


ところが、シューティング脳患者は、
「遊んで、くれれば。面白いと、わかってくれる!」
であるからして、アンチャッチャブルである。




シューティング脳族は次のように言う。
「それを乗り越えるのが楽しいんだ」
「練習すればやれるようになるって」

100から1000までもう駄目だ。
なるほど、なるほど。
はっきり、言おう。

普通の人間はそれを乗り越える前にチートを使う。
普通の人間は、チートを使わなければシューティングゲームは遊べない。
チート、違反行為。

それはつまり、難易度調整であり、コンティニューであり、時によってはコンテニュー回数を99回にする、チート中のチートである。



イージーで遊ぶ人間はイージーでコンテニューを繰り返してラスボスを倒し、
「素晴らしいゲームでした!以上。」
という評価を下してシューティングを去る。

プライドが許さずにノーマルで遊ぶ人間は、
ボムとコンティニューを繰り返してラスボスを倒し、
「素晴らしいゲームでした!じゃあ、さよなら。」と、立ち去る。

もっすごいゲーマーを自負してハードで遊ぶ人間は、
コンティニュー回数を99回にしてボムと死ぬとを繰り返し、
「素晴らしいゲームでした!じゃ、次。」とシューティングには二度と近寄らない。


シューティングゲームを購入してチートをせずに遊びこむのは、シューティング脳に汚染された特別な人達のみなのだ。

泣き喚きながら弾という弾から逃げ回り、這いずり回って追い詰められた末にボムを使って5秒の安息を得、やがてはボムも尽き果て無残に殺され、生き返っては泣き喚きながら逃げ回り、這いずり回って追い詰められた末に、また生き返って泣き喚きながら逃げ回り、チートを使用して残機を4にしては泣き喚き、泣き喚き、泣き喚き、逃げ回り、逃げ回り、逃げ回る。
それが普通の人間にとってのシューティングゲームというものである。

弾幕シューティングは、より悪い。
弾幕シューティングにおける手っ取り早く先に進めるコツというのは、チートを伴う死の繰り返しによるパターンの記憶と、自機の周辺だけに目をやって、当たりそうになったらレバーを横に瞬き入れる、というものであり「撃つ」という要素が跡形も無く消え去る。
ショットボタンを押しっぱなしにして移動し、少しの失敗を犯しては泣き喚きながら逃げ回り、追い詰められるゲームになる。


シューティングゲームというものは、乗り越えた先に次のボス、そのまた先に次のボス、そのまた先の先のラスボスを倒して初めてハッピーという造りがおおかたであり、ハッピーになるには終わりの見えない果てし無い鍛錬か、チートが必要となる。
チートというものは、多数のミスによる無数の死が発する「下手糞め!お前は駄目な人間だ!」との罵倒によるやるせなさと、猛烈な嫌悪感を伴う。
そんなもの、誰が好んでやるものか。

それを乗り越えてそちら側に行ける人間というのは、物凄い暇な奇人であるか、生まれつきのシューティング脳を持った人間であるかのどちらかである。

時として彼らは夢遊病者のようにこう呟く。
「おかしい。昔はシューティングゲームに市民権はあったのに!」
おかしい。
確かにおかしい。
シューティング脳患者の思考回路はおかしい。
認識力がおかしい。
狂っている。

シューティング市民権の元を辿ればインベータゲームである。
それは即ち、カートンを積んでしわくちゃなグラサンをかけたダークパープルのネクタイシューティング脳患者が、禁断症状に耐えかねて100円玉を積み上げるという日本を覆った未曾有の伝染やまいであり、もうそこから病んでいたのだ。シューティングゲームというジャンルは。





健康な人間がSTGをチートを使わないでプレイする、あるいはチートに嫌悪感を抱き、コンテニューを求められるカウントの最中に電源ボタンをOFFにするというのは、もうその時点でやりこみなのである。やりこまなければ2面の道中で残機を削られ、3面のボスの初段でGame is overである。
いや、やりこんでもやりこんでもGame is overが待ち受ける。
シューティング脳患者が面白いと感じるように作られたシューティングゲームは、普通の人間にはやりこんですらGame is overなのだ。

やりこむ事によって、それが3面の道すがら屍を溜めて4面の大ボスでリセット、といった具合に牛歩の歩みでHappy EndなGame is overに近づき、牛の半歩を繰り返す中でシューティング脳を発病し、シューティングゲームが発売されたとなればその出来のよしあし、その質感に関わらず必死で収集買い漁る。
そうなってはもう、手遅れである。


唇と唇の間に隙間が出来た時には、
「どうしてこんな面白いものが世間では受け入れられないんだろう」
と、壊れた脳みそから壊れた言葉が飛び出る廃人になってしまっているのだ。






>いずれにせよ社会人になってもゲーマーでいること
>ゲーム体力を持ち続けることは、とても困難なことだと言えるだろう。
至極。
至極。
いたまれりきわまれり。
至極。至極。いたまれりきわまれり。
そのとおりである。

ゲーム体力を失った人間は、100円を投じる事も、フリーや体験版のダウンロードも、チートをして屍でラスボスを蹂躙する事も行えなくなり、シューティングゲームというものからの完全な断絶を宣言する。
それによって、シューティング脳に汚染される機会を完全に失う。



もしもシューティング脳が若人に言葉を投げかけるのであれば、
「クリアするのに30時間以上かかるゲームややりこみ要素満載のゲームを今のうちに」というのは920度違う。完全に別世界の別方向の別次元である。
「今のうちにシューティング脳になっておけ」
が正しい。
そう投げかけなければ、シューティングゲームはより痩せ細る。
滅ぼしたいのならそれでいいのだが。


シューティング脳患者に対しての
「クリアするのに30時間以上かかるゲームややりこみ要素満載のゲームを今のうちに」であれば、それは正しく、そのとおりである。
もう彼らは手遅れであり、進行するシューティング脳から逃れる術はハラキリ、即ちゲーマー的死、これそれゲームからの卒業しか無いのだから。



では、という事だ。
シューティング脳患者以外も楽しめるSTGとは、で、ある。

そのようなものがもしあるとすれば、チートを使わずに気軽にクリア出来るような非常にショートでお手軽な小物であり、尚且つ乗り越えれば面白いといった本来持つ面白さである壁は僅かにその姿を残している、短編集のようなもの。
もしくは、2周目の5面のボスを殺してハッピーエンド、というものではなく、暇つぶしに延々遊べるけれど、末期のゲーム脳患者でも10分以内にGame is overになり、チートの手段はまったくない、といったような遊び捨てタイプのダイソー以下なミニゲームであろう。

眼鏡は額の上にあるわけで、それを捜して寄り添い語り明かすシューティング脳患者のその様は、物凄く滑稽である。




選民は選民らしく雲の上から地上の民に雷を落として馬鹿にしながらも、「我々が滅びる前にこの雲が消えてしまうのではないか」などと怯えつつ、こっそりひっそりやっておればよいのだ。
先天性のシューティング脳患者は常に一定の割合で存在し、何もしなくても国木に恍惚と寄り付くオオムラサキのようにその豆を勝手に育てて登るのだから。