2005年3月4日金曜日

ヌルゲーマーのエンディング



ヌルゲーマーにエンディングは無い。


おい、その表題でその書き出しは無いだろう。
仰せの通り、その通り。たしかにこれは、ないと思う。


けれども、覚めない悪夢が無いように、何事にも終わりはある。
ヌルゲーマーに訪れる終わりを持ってヌルゲーマーのエンディングと称するくらいのゆとりが欲しい季節なのだ。寛容さを見せる時だ。違う違う違う違うそれはもとの姓は耿だったんだけれど幽州の発音ではなんか微妙だったので改姓した古くから劉備に付き従っててんでからてんでをとんずりまわってK州に入ったやいなやびじくそんかんと共になんか変な将軍に任じられてやがて益州に入った頃にはでっぷりと肥え太ろいて「いや~劉璋さん、仲良くやりましょう。ところで、ライブドア買いませんか?」
とか上手い事言って劉璋さんは劉璋さんで馬鹿だから、凄い馬鹿だから、
「いい若者がいるんだよ(@ - @!)」
とかまぬけな事を目を輝かせて言ったりしている内にいつの間にか益州乗っ取られちまって、ふーんだ、もうスカイマークエアラインで空飛ぶエアプレインだぜ。みたいに劉璋ぐれちゃって泣いてるし、ってそれは簡雍。今言ってるのは顔良。なんか三国無双4とかでも多分登場しないくらいの雑魚キャラ顔良。スティーブンスピルバーグの映画で喩えると何も悪い事してないのにコックに眠らされるコックくらいの雑魚キャラって、それはスピルバーグじゃなくてセガール!!おまえむかつく。ほんと。こういうくだらない事を書くから焦点がボケるのだ。思いっきり構成を考え尽くしてから書き始めた文章でどうしてこういう事やるんだ。ほんと書く事の無い時にこういう事やるならまだわかるけれど、どうしてこういうちゃんと書ける時に変な事をするのか物凄い疑問である。なんかこういう事やっている間にどういう事書くつもりだったのかとかもだんだん忘れてきたし。本当に。非常に腹立たしい。もっとちゃっちゃと書け。ちゃっちゃと。その昔、須磨水それはチャチャ、ラッコな。ラッコ。泳ぎの上手い狸みたいなやつ。しかも、須磨じゃなくて鳥羽。鳥羽な。鳥羽伏見の戦いの羽伏。とどのつまりってのは、トドの内臓って事で、物凄い栄養があるって事。嘘だけど。


嘘はいけない。
本当にいけない。
最近よく考える。


もしも僕の正体が真性引き篭もりではなくて、大江千里だったとしたら僕の書いた文章は僕の書いた文章としての価値を失うのだろうかと。

例えば僕が足しげく読んでいるブログの書き主が実は男子学生であったと判明すれば、僕は二度とそのようなブログを読みには行かないであろうし、他の全ても消え失せる。それと同じように、真性引き篭もりは僕と直接に繋がっているのだろうか。

繋がっていないとすれば、真性引き篭もりが遠い所へ行ってしまったようで寂く孤独であるし、繋がっているとすれば僕の価値は真性引き篭もりであるという一点だけという事になり、哀れだ。


僕は一体どこにいるのだろう。
平成17年3月4日の10時過ぎの週末の夜、僕はどこで何をしているのだろう。
十日前の夕飯のメニューが忘れ去られ消えてしまうのと同じように、十日前に何を考えていたかなんて覚えていないし、十日前に何を書いたかも覚えていない。
十日前の出来事なんて、何も覚えてなどいないのだ。

僕は考えて、悩んで、キーボードを叩いて、左親指と右小指の第二間接がみしみし鳴って、少しの頭痛に怯えているのに、10日後にはもう忘れ去られる定めであるのだ。
何も無かった事にされるのだ。こんなにもあるのに。ものすごくあるのに。
完全に消え失せてしまうのだ。跡形も無く、無かった事にされるのだ。


例えば今、この瞬間、僕が小刻みに両手首を震わせながら絶え間なくジャンプを続ける事により、交差二重飛びが出来るようになりつつあって、成ったならば、今の僕は交差二十飛びとして永遠に生き続けるのだろう。

けれども僕はもう飛べやしないし交差も二重も出来ないから、10日後の僕に残してやれるものは何も無い。10日を待たずして、忘れ去られ消え去られる程度の価値しか無い。こんなにもあるのに。ものすごくあるのに。




なんでこんなにも孤立してしまったんだろう。

人付き合いというものの正体は、損得勘定である。
「こいつといても価値は無い」
と思われたら最後、もう近づいて来ない。

着飾って、整髪剤をまぶして、笑顔を作って、月九を見て、1180円のステーキを食べて、豆から出来たビールを飲んで、いいよいいよ、気にしない、財布の中身をちらつかせて、相槌打って、うなずいて、同情して、NTTに大金貢ぎ、人の悪口張り巡らせて。
そうして、そうして価値を高めて貸し借りて、雁字搦めにしがらんで、孤立を避けるべきなんだ。「人付き合いなんてまっぴらだぜ。あーあ。」などとウェブ上で、都合のよい人付き合いだけを探し彷徨い求めるよりは、そっちの方がずっといい。顔を隠してまぬけ面するくらいなら、くだらない事をしっかりとやるべきなんだ。

けれども僕は真性引き篭もりであるからして、それをするにはもう遅い。
そのような局面は過ぎ去ったのだ。

今僕に出来るのは、「こいつといても価値は無い」と思われる事態を避けられるように過ごす事くらいなのだ。横の繋がりが無理ならば、縦の繋がりで埋めればいいのだ。
どうせ昔から横の繋がりなんて無かったのだから、それについては慣れっこだ。


けれども縦すら今はもう、襷を繋げなくなってしまった。
いつからだろう。どこで途切れてしまったんだろう。

DOTA allstarsがあった頃は、10日後へ向けて新たなノウハウ新たな戦術新たな戦略をしっかりと確かめて繋いで繋いで繋がってたのに。今ではもう、何も繋げないし何も残せない。
受け取りたいし、渡したいのに。



「今日しか無いと思え」
などという檄はでたらめの戯言である。
今日しか無い奴の行く宛なんて、せいぜい真性引き篭もりだ。明日があるから頑張れるんだ。君の笑顔が見たいから。違うだろ。そうだろ。てやんでえ。ちきしょうめ。

遠くへ遠くへ、もっと遠くへ助走をつけて思いっきし投げて、凄く遠くの見知らぬ場所の十日うしろの夜更けの門まで投げ飛ばせ。投げ飛ばすんだ。なにかを手にしているのなら。



何も手にしていないから、投げるものが無いから手当たり次第にブログに書くだなんて、そんなの無茶だよ。そんなの嫌だ。終わってる。

真性引き篭もりも真性引き篭もりもまっぴら御免をこうむりたいのだ。
僕が真性引き篭もりである事も、真性引き篭もりが僕である事も同じくらいに肩が凝る。けれども僕にはこれしか無いのだ。
他に手立てが見当たらないのだ。

十日前の夜の10時にブログ投稿があったのならばもしかして、どこかの誰かの遠くの人が、それを拾ってくれるかもしれない。読み手のいない手紙だって、ガラスの瓶に詰め込めば、メッセージインザドリームだ。


けれども僕はそんなもの繋げない。
「僕は真性引き篭もりです」
なんて、伝えた所で何になる。
伝えられた方も困るだろう。

だから僕は嘘を伝える。
ありえもしない事を伝える。
壮大なスケールの壮大な虚像を壮大な文章で荘厳に伝える。

例えば、「僕は実は真性引き篭もりではなくて大江千里です!」とか書く。
しっかりと書く。
僕が実は真性引き篭もりでは無かったという事により、どこかの誰かの僕への評が地に落ちたって、そんなの知らぬの焼き蛤だ。










僕は実は真性引き篭もりではなくて大江千里です!
  「なんだよ~真性引き篭もりじゃなかったのかよ~嘘つきめ~」
嘘でした!
  「ちぇっ、つまんねーの。」
ごめんなさい。
  「じゃあさー、なんか歌えよ~ひゅ~るりーだっけ?なんかあんだろ~」
いや、歌いたいのはやまやまなんですが、僕はそのひゅーるりーだかとんでとんでーだかの大江千里じゃなくて、蘭学者の大江千里だから、歌いたくても歌えません。あのー、もしよろしければ、蘭学チャットとかそういうのであれば朝まで付き合いますよ。ほんと物凄く蘭学とか詳しいので。グーテンベルグクライフファンバステンユーノウ?チェルシーノサイドバックノヒト、フィリップスアイントフォーヘン、ルネッサンスー、ミンナノッポ、ボンヤスキー、ボンヤスキー、クライフェルトークライフェルトークライフェルトーあー、タイマー、フウシャー、チューリップー。






おい、その表題でその閉めは無いだろう。
仰せの通り、その通り、たしかにこれはないと思う。