2005年3月15日火曜日

R30という嘘



真性引き篭もりが真性引き篭もりでないように、R30はR30ではない。
R30という嘘である。















>僕とはブログというメディアに対する姿勢がまったく相容れないと思う
>某弾道ミサイルブロガーからのトラックバックでさえ、削除したことがない。
(*^ - ^*)(T _ T) (> <) :"O














>感情に任せていい加減なことを書きなぐるんではなくて、
>もう少しお勉強して冷静に書いてください。
というコメントに、R30というブロガーがまじムカついたというお話だ。

伝わらない、誤読される、コメントがつく、盛り上がる、悲しい。
けれどもその怒りは納めるべきだし、筋違いだ。


人々はR30に代表されるようなブロガーに救いを求めている。
正義を、秩序を、真実を、既存のメディアには無い、嘘を嘘だと述べる良心を求めている。算段の無い本当の声を求めているのだ。

「そんなもの求められても困るしwwww(笑)。」
などというお気持ちはよくわかる。
しかし、人が何を信じるかはその人の勝手だし、何に救いを求めるかも人それぞれの勝手である。想定外に信じられる事や、想定外に救いを求められてしまう事だってあるのだ。


半裸のフィギアに、テレビのゲームに、ドイツの戦車の1/75の戦艦に、シビック2台が買えるくらいの黄金造りの仏壇に、棚と床とをを埋め尽くすエロパッケージの埋れぬ山に救いを求める人がいる。
それと同じように、R30という文章ではなく偶像に、救いを求める人がいる。

既存のメディアでは見当たらぬ、良心も人間性も本心も、等身大の息遣い音も聞こえるその投稿にその声に、希望を見出し崇拝し、救いを求める人がいる。

ブロガーというものは裕木奈江でも宮沢りえでもない。等身大で近くて手の届く範囲にありながら美しくて可愛くて追いかけ好いて応援するに値するつんくの子分の百貫デブか、その横にいる娘さんだ。だからこそより愛され、より崇拝されるのだ。



馬鹿げているといえばその通りだ。
そんなものに救いを求めるのは馬鹿げている。
シドマイヤーズやDOTA allstarsが救いをもたらさないように、R30が世界を救う事はない。読者の一人の見る悪夢の霧に覆われた世界を晴らす事は無い。


けれども、信じる人はいるのだ。
R30から伝わってくる良心を、人間性を、愛を誠意を誠実さを、もしかしてと思い信じるに値するのだという幻想を抱く人はいるのだ。彼らを責めるというのは馬鹿げている。

2つあるうちの1つはそういう類のコメントではないのだけれど、少なくとも上のコメントは無謬性であり聖人であり正義だ。R30という光は失望する市民の庭の軒先に差し込んだ一筋の虹色の、うんこをしない喋る神だ。



朝日は駄目だ論外だ。デイリーと報知は朝日の次に駄目だ。読売も産経も日経も駄目だ。しょせん奴らはトルネコだ。刺身と寿司と焼き鳥で活字の山を売り飛ばす商売人だ。


けれども、けれども、けれども違う。
R30は違うガトーは違う偽藤は違う。
一円の対価も受け取らないものに数時間の熟慮を支払い、真剣に誠実に心の底から世界を願う純粋でまじりっけの無い救いの神であり小学生であり5年生でありFカップであり処女なのだ。



彼らはR30が何を書こうと何を歌おうと何を喋ろうと何を盗もうと関係ない。
R30という正しい嘘がウェブ上に燦然と輝き続けてくれる事だけを願っているのだ。

そして忘れてはならない事実がある。
R30という幻想を崇拝し、信じる人を生み出したのは、R30その人自身が1年に渡り文章を通してインターネットに伝え続けた誠実さであり良心であり、その佇まいの正しさなのだ。


一年にわたり幾多の時間を支払いながら悩みぬいた末に訪れたものが、勝手に信じ勝手に失望し勝手気ままに罵倒するコメントであるという事は、ありがたい事ではないだろう。ふざけるなと怒鳴り散らかしたくなるのも当然だろう。
けれども、それはほんの少しだけ違う。
ほんの少しだけ違う。



特別な人間は一握りで、多くの市民は声を持たない。
神の一言一句を崇めたて、祭りたてるが生きる術なのだ。

そのお怒りはよくよくわかるが、罵倒するのはそれは違う。
信じていたものに裏切られ「おれだってうんこするし慶太とセックスしまくりじゃ黙れボケお前らキモいんだよウゼーーーー俺だって必死に歌って踊ってんのになにやろうが勝手だろ糞っくらえめ消え去らせプンプンプン」とやられた時の悲しみを少しだけ、ほんの少しだけ想像してみて欲しい。
どうしても書くというのなら、言葉を選んで伝えるべきだ。




2005年の3月10日、R30はR30ではなく、R30という嘘である。
PPVの心の中に、R30という偶像だけが彷徨い続ける季節である。