2005年5月3日火曜日

藤代裕之はガ島通信を殺すのか?



「藤代裕之はガ島通信を殺す」のかと問われれば僕はYESと答える。しかし、この投稿の視点、ブログというものから言えばNOだ。「ガ島通信」はもう死んでいるからだ。


もう死んでいる、という事は即ち昔は生きていた、という事である。
その命、つまりガ島通信の魅力とは何であったかをまず確認する。




ブログの魅力。
その1つにリアルさというものがある。

1人の人間が継続した更新を行い、等身大の文章を曝け出す。
他の人間の手が入る事なくブロガーが書いた文章がそのままウェブに流れ、直に伝わる。

ちょうどジ・オズボーンズやサバイバー、アメリカンアイドルが人々を引きつけたのと同じ事である。我が国においては未来日記やあいのり、あるいは電車男か。

その点で、ガ島通信は偽りの無い等身大であったが故に、生きていたと言える。


また、内側を覗き見る、というのもブログの魅力の1つである。
社長のブログは社長にしか書けぬし、野球選手ブログやアイドルブログ、歌手ブログなども同じように、その人しか知らない世界がブログを通じて提供され、それが読者を引きつける。

その点で、ガ島通信にはそれなりの希少性があり、魅力があったと言える。




では、何故ガ島通信は死んでしまったのだろうか。
それは、ガ島通信の根幹にある主張を見れば明らかになる。


昔、しがない記者日記というブログがあった。
しがない記者日記は、新聞の駄目さを足りない筆力と自己正当化思考と不誠実な行動で証明できる人間が「ネットは駄目だ」「逆に新聞は良い」と主張していたブログであり、あっと言う間に死んだ。

それに対してガ島通信は、新聞の駄目さを足りない筆力と自己正当化思考と不誠実な行動で証明できる人間が「新聞は駄目だ」「逆にネットは良い」と主張していたブログであり、それ故説得力があり、ガ島通信に命を吹き込んでいた。


ガ島通信が時流に乗ったのは、新聞に不満のある人がインターネットには多く、彼らがガ島通信の「新聞は駄目だ、ネットは良い」という結論を支持したからである。その結論の導き出し方や、彼の思考の背景を無視したか気がつかなかったかである。





しかしそれらの特別な魅力はガ島通信が藤代裕之になった事により失われた。
特別なリアリティショウブログから、普通のブログになったのである。
それだけであれば死にはしないのだが、ガ島通信は死んでしまった。



それは、藤代裕之には普通のブログを書く能力が無かったからである。

彼の文章では新聞社と新聞社員と新聞と新聞読者というものが常にまぬけな悪の帝国として扱われており、過去においてそれは自己批判とも読み取れるものであったのだが、最近の藤代裕之の言動により、どうやら自己批判ではなく、自己を正当化した上での攻撃でしかなかったという事が明らかになりつつある。彼の新しい仕事が新聞社であったという事実は、彼の「新聞は馬鹿だ」という主張を裏付けるものではあるのだが。


ブログ、ネットを正しいものとして扱い、新聞をありとあらゆる側面で間違ったものとして扱うその結論を先に持ち出し、新聞は和菓子屋でブログは洋菓子屋といった電波まみれの例え話を持ち出してまで必死になる。それら5度の寄稿に説得力のある論述はまったく存在しないと言ってもよい。

インターネットが大衆の手に渡って5年以上経過したが、藤代裕之の定義に従って「死んでいない」という指針でブログを判定すると、比較的生きているかのように見える極東ブログですら実体としては「死んでいる」と言えるだろう。


生きているのは必死でアフィり、インターネットの質の低下に貢献している現金ブログのいくつかとエロ、あとは秋葉原ブログ。無理やりに1つ付け加えるならば、新聞社と新聞社員、新聞への誹謗中傷によってキャリアアップを成功させた藤代裕之くらいのものであろう。

藤代裕之とガ島通信は新聞社と新聞社員、新聞と新聞読者への誹謗中傷により、自分自身の人生を見事に向上させたという、ブログが人を幸せにする1つの例である。





藤代裕之への批判が増している。それは当然の事である。
藤代裕之が不誠実で実体の無い新聞への罵倒を結論ありきで繰り返すからである。
まあ、それ自体はインターネットではよくあるケースで、どうって事は無い。


問題は、それに対して藤代裕之が取った行動にある。
彼はそれら自身の不誠実さと電波文章への批判を1名のコメント欄で暴れる馬鹿へのものであるとの挿げ替える事に成功した。同時に、情報格差を利用しての脅しを行った。
それは、小倉秀夫がその自身を不可侵化する態度と、いくつかの小さな矛盾点と不誠実さへの批判を「コメントスクラム」へと挿げ替えたのと同じである。
自分を攻撃しているのはコイツに代表されるような馬鹿だ!とまともな批判を完全に黙殺した上で指摘してしまったので、それはもう消え失せる事は無く、その投稿を持ってガ島通信は完全に死んだと言って良いだろう。



「商品としての価値」と共に、「読者との距離」が生死の物差しであると主張し、「読者との距離が離れてしまった死に新聞vs読者との距離が離れていない故に命あるブログ」という論陣を張った彼が取るべきであった、たった1つの正しい行動とは、よせられた全てのコメントに対して誠実に対応し、その距離を証明する以外に手は無かったのである。

都合のいいコメントだけを選り好み都合の悪いコメントを完全に黙殺している藤代裕之のその態度は、朝日新聞が読者欄の投稿を自分好みに選り好んでいるものとまったく同じ構造である。都合の悪い意見には耳を貸さない新聞を批判しながら都合の悪い意見には耳を貸さないブログを運営するというそのご立派な態度には恐れ入る。



そもそもインターネットというものは悪いものである。
罵詈雑言も著作権侵害も荒らしも荒らしも匿名荒らしですらも許されてしまう世界である。そこには一切のルールは無く、その恩恵を当のガ島通信自身も被ってきたのである。ガ島通信における「誹謗中傷は削除します」というルールは、公知の事実であっても誹謗中傷に当たるという大前提の元では俺ルールの独善に他ならない。


不誠実な論理的矛盾を抱えた人間がブログを運営する上で最も正しいコメント欄の管理方法は、コメント欄の閉鎖である。コメント欄の閉鎖という行為が批判される事はあるが、それ自体にはまったく問題は無い。そもそもコメント欄の解放というのは荒らしへの場の提供であると言い換えられるからだ。誠実で矛盾点の無いブログでさえ、往々にして荒らされる。いくつかの有名人ブログがそうしているように、コメント欄の閉鎖というのは最も正しい1つの選択肢であり、そうするべきなのである。
公正に見るならば、コメント欄の閉鎖を一度でも笑った人間にその資格は無く、気に入らないコメントを潰し眼で削除し続けるというのが最も適切な手であると言えるのかもしれない。


それよりもっと適切な対処法としては、mixi等に引き篭もるか、ブログを閉鎖してリアル社会に引き篭もる、あるいは特定の新聞やいくつかのブログのように、信者と共に引き篭もるといったものがある。
藤代裕之はこちらの選択を取るべきであろう。
いや、彼の態度からすると、既にそうしていると言える。
それは即ち死んでいるという事である。