2005年5月18日水曜日

下手な考え



下手な考えひねもすのたりと言うように、下手な考えはしない方が良いというのは昔から広く知られたところである。

では、どうすればよいのだ。
一体どうすればよいのだ。
どうすればよいのだ。

と、3度も繰り返す程の難問ではない。
下手な考えがよくないならば、上手に考えればよいのである。

ははあん、なるほど、上手に考えればよいのかと早合点し、上手に考えようとした。
しかし、これがなかなかどうして難しい。

上手に考えるぞ、上手に考えるぞ、と念じてみた所で怪しげななにやら自己啓発セミナーの雰囲気が部屋中に立ちこめるばかりでちっともうまく回らない。


つまり、今、僕が、そういう。
あれだ。シンキング。タンク。


つまり、である。
僕は上手に考えようとしたのだ。
けれども、実力が伴わぬのである。
上手にホームランを打つぞ!と3Aに落ちたナイスバディのような寂しさに包まれた。

結局の所、僕には下手な考えしかできぬのである。
心をからっぽにして考えようとしても、上手に考えようとしても、実際に成されるのは下手な考えなのである。どのくらい下手かというと、この投稿をここまで書くに辺り、カンガルーという単語を4度も打ち込んでは考えに考え抜いた末に全て削除してしまったくらいに下手なカンガルー。



これは敗北である。
我が敗北の新たなる1ページの記録である。

つまり、僕は下手な考えをせぬという自己改革的新たなる決意の3日坊主の俺幻想を抱いて下手な考えをせぬ事を堅く心に誓い、上手に考えようと試みたが失敗に終わったというだけの投稿である。


いや、そうはさせん。
認めぬ。断じて認めぬ。
僕は負けてなどはおらぬのである。死ね蕪村。


つまり、即ちである。
僕は縦軸の戦争に敗北したのである。

上手に考えるvs下手な考えという戦いにおいて、僕は勝ちうる術を持っておらぬのである。
つまり、いや、この説明じゃあ解りづらいか。そうだな。
皆様にも解りやすいように説明しておこう。


つまり、もし、僕が老舗和菓子屋だったらという話である。
え?
和菓子屋?
えー、僕が和菓子屋?
そんなん、想像も出来へんわ・・・。


えーーーーーーーーーー、ど、どうしよう。
僕が和菓子屋だったらどうしよう。
みんなやったらどうする?


朝、といっても世間では朝と呼ばれていない時間にたたき起こされ、いつも通りの先の見えない不安な現実へと連れ戻されてPCの電源を入れようとすると、ちりじりに破れた布団と静電気の布との中で自分が一件の、とてつもなく大きな老舗和菓子屋に代わってしまっているのに気がついた。


ってそんなん想像も出来へんわ・・・
どうしよ。
いや、ほんとどうしよ。
だって、和菓子屋やで?しかも、老舗。
屋根とか突き破っちゃうよ。しかも、老舗。


やめだ。
やめだやめ。
こんなのやめだ。
考えるのはやめておく。


老舗和菓子屋。
僕は老舗和菓子屋。
疑う余地もない。
下手な考えはせぬ。
僕は老舗和菓子屋なのである。
赤いのだ。
丸いのだ。
光るのだ。
結局の所、僕は老舗和菓子屋なのである。
時々レタスに憧れたりもするが、老舗和菓子屋は老舗和菓子屋なのである。



それで、である。
なんと、近所に洋菓子屋がオープンして若者の人気を集め始めたのである。
僕は、洋菓子屋でいうとモンブランが好きかな。
だって、クリ入ってるし。

何故栗をクリと片仮名で記述したかというと、そういう年頃だからである。とりあえずよろしくやりたい。柔らかめにホイップした植物性の生クリームを体中に塗りたくった上で舐め取りたい。


で、ある。
つまり、僕は洋菓子屋で近くに和菓子屋、じゃなかった。
ちょっと混乱した。
待ってな。
今直すから。



つまり、僕は和菓子屋で、近くに洋菓子屋がオープンしたのである。


その洋菓子屋は誰なんだろう。
誰のメタファーなんだろう。
だって、真性引き篭もりのあれって全部メタファーなんだろ?
じゃあ、洋菓子屋って誰だ?
・・・ちょっと待って、今考えてるから。



いや、考えるのは駄目だ。
下手な考えはしない。
考えるのはよそう。
極めて不毛だ。

つまり、僕は老舗和菓子屋で、近所に洋菓子屋がオープンしたんだよ。
仮にその洋菓子屋がケンちゃんのメタファーであったとすれば、和菓子と洋菓子は縦軸の両極である。しかし目を横軸に向ければ、縦軸とは全く別の次元での戦い、即ち洗濯屋ケンちゃんとケンちゃんラーメンはいつまで無修正なのだろう。





STOP!下手な考え。
つまり、である。

僕は敗北したのである。
下手な考えを止めようと心に誓った人間が上手に考えようとし、失敗に終わったのである。


しかし、それは致命的な敗北ではない。
考えるのを止める、という選択肢がまだ残っているからである。


即ち、考えるのではなく、感じるのだ!
ドント焼きthink fire。




いや、しかし困った。
何も感じない。
この階には何か特別なものがあるような気がする、とかそういうの全然無い。
この階にあるのはこの部屋だ。
この部屋にあるものは口うるさいパソコンだ。
一体何を感じろと言うのか。
苦痛だ。苦痛を感じる。くそう、オークの魔導師め。
肉体が苦痛に破壊されそうだ。
駄目だ。
感じるのは駄目だ。


困った。
実に困った。

下手な考えを避けて上手な考えを試みるも失敗に終わり、考えという軸を避けて感じに行ったものの待っていたのはろくでもない。ろくでもないって事は7か?それとも8か?いや、まあ、聞かなかったことにしてくれ。誰にだって過ちはある。


僕は2度までも敗北したのである。
考えるに敗れ、感じるに負けた。栄光とは程遠い。朽ち果てそうだ。腐臭がするぜ。
けれども、幸いなことにセガじゃない。
学びである。


学びという選択が残っているのである。
考える力も感じる力も持たない人でも、学ぶ事は可能なのである。
素晴らしい。
学べばよいのだ。


しかし、そこにも罠だ。
罠だらけけだ。
にやりと笑うロビンフッドの視透明だ。
何から学ぶかが問題なのだ。
学ぶ相手を間違えたら、落ちる奈落の底なのである。


馬鹿は歴史に学び、愚者は経験から学ぶと昔からよく言われているように、歴史と経験から学んではいけないのである。では、何から学ぶべきなのか。それは、歴史だ。
歴史から学ぶ事だけが下手な考えと恐ろしい感じから逃れる事の出来る唯一の術であると言ってもよい。学のだ。即ち、学ぶのである。


今ここに歴史が作り上げた1つの事実があるとする。
より正確に言うならば、2つの睾丸があるとする。
少し下品に言うならば、2つのきんたまだ。

これが歴史だ。
それが事実だ。
そこから、学ぶのである。


何故睾丸があるのか。
うーん、なんでだ?
いや、立ち止まるな。
よく考えろ。
しっかり感じ取れ。

つまり、である。
睾丸が体の外にぶらんぶらんとぶら下がっているのには理由があるのである。

睾丸は、熱に弱いのである。
発熱に非常に弱いのである。
であるからして、その熱を効果的に逃し冷やせるようにと体の外にあるのである。

そう。
睾丸は冷たさを求めているのだ。


学んだ。
学んだぞ。
1つ偉くなった。
自画自賛だ。よくわかった。睾丸は冷たさを求めているのか。


では、心臓はどうであろうか。
心臓はどうして睾丸のように体の外にぶら下がらず、胸の奥底に潜んでいるのだろう。ちょっと待ってください。今考えています。なんかわかりそうな感じがしてきた。



k。

心臓は、寒さに弱いのである。
暖かさを必要としているのである。
であるからして、最も暖かいであろう体の芯の左側に存在しているのである。

そう。
心臓は暖かさを求めているのだ。


つまり、である。
心臓が体の内側の芯の辺りに存在するという事実から僕は学んだ。
人間の心臓即ちHEART、即ち心が暖かさを求めるという欲求はとても自然なものであり、人という人、人類という人類、ブロガーというブロガーは、今こそ、まさに、恥ずかしげもなく「ぬくもりが欲しい!」とフォント16の大声で、我口々にと叫ぶべきなのである。
それこそが、あるべき理想の完璧な世界の姿なのである。

ただ、過度のぬくもりはいけない。熱すぎては駄目だ。
人肌くらいでなくてはならない。
茹で蛸になっちまうからな。


ああ。
ぬくもりが欲しい。
























おっと。
危ない危ない。
眼鏡委員長級のあわてんぼうだ。
大切な事実を見落としていた。
心臓と心は別のもの、別の場所であるという事を見落としていた。

心とはどこにあるのか。
これはかなり難しい問題である。

たしかに、左胸というのは説得力がある。
見えざる天使の弓の矢が狙うのは常に左胸だ。
しかし、あれは間違いだ。
心は左胸などには無い。
心があるのは、頭だ。
つまり、脳だ。


それからすると、それからすると。
人の心が本当に求めているのは水だ。
いや、砂糖か?
砂糖は脳のエネルギーって言うくらいだし。


いやいや、違うわ。
あれだ。
イチョウだ。
銀杏だ。
人の心が本当に求めているのは銀杏、って銀杏?
鼻血とか出るぞ。
おかしくないか、それって。


あああああああ!!!
そうだ。
DHAだ。
ドコサヘキサエンさんだ。
何人だよ。
どこまでが名字でどこからが名前なんだ。
ドコサ・ヘキサエンさんか?
それとも、ドコサがファーストネームでヘキサがミドルネームでエンがサードネームか?
YO!HEKI!YOYO!HEKI!
フレンドリーだ。
人の心が求めているのは青魚だ。
梅干しと煮込んだ青魚だ。

って、それっておかしくないか?
なんか違うな・・・



脳が求めているもの、脳が求めているもの、脳が求めているもの。
わかった。


脳が求めているのは脳が脳として働く事だ。
即ち、知的刺激だ。
考えること、感じること、学ぶこと。
脳は3つ全てを求めているのである。

下手も誤りも支離滅裂も、無駄な学びの知識も、活用機会の訪れぬ感性の鍛錬も、その全てが正しい欲求に基づく正しい行動なのである。恥を恐れず誤りに怯えず、無駄に終わるのではないかという恐怖を乗り越え、考え、感じ、学ぶ。それこそが正しい人間の生き方なのである。
下手な考えも、無意味な感知も、間違った学びも、今では全てが愛おしい。

ああ。
知的刺激。人間、心、脳万歳。
人の脳は無限大。人間っていいな。












おっと。
危ない危ない。
大事なことを見落としていた。

僕は男だ。
男とは何か。
答えは一つだ。

男とは、下半身で考える生き物だ。
男とは睾丸だ。
やる事しか考えておらぬ不潔な生き物だ。
不潔で何が悪い。
いいじゃねえか。
一発やらせろよ。


つまり、僕の心は睾丸にあるのである。
即ち、僕が求めるものはぬくもりでも知的刺激でもないのである。




ああ。
冷たくなりたい。
よろしくやりたい。