2005年8月2日火曜日

酒と朝日と第三文明



100年の恋も冷める瞬間ってのがあるのと同じように、100年の文章が冷める瞬間というものもある。ここで言う100年とは100年ではなくて、100年くらい凄い、って意味だ。
プチミリオンな形容詞だ。







一例として、一般的に、かなり厳しいだろうと思われるのが、第三文明だ。
例えばスティーブジョブスが言った言葉が大学のスピーチではなくて、第三文明への寄稿だったらどうだろう。同じように読めるだろうか。いや、これは読めるか。

例が悪かった。
ジョブスってのは貯金が多すぎた。
第三文明くらいじゃあ、太刀打ちできない。






一例として、一般的に、かなり厳しいだろうと思われるのが、第三文明だ。
例えばビルゲイツが言った言葉が大学のスピーチではなくて、第三文明への寄稿だったらどうだろう。同じように読めるだろうか。いや、これは読めるか。

例が悪かった。
ゲイツってのは貯金が多すぎた。
第三文明くらいじゃあ、太刀打ちできない。






一例として、一般的に、かなり厳しいだろうと思われるのが、第三文明だ。
例えば飯野賢治が言った言葉が大学のスピーチではなくて、第三文明への寄稿だったらどうだろう。同じように読めるだろうか。いや、待てよ。

なんで飯野賢治が大学でスピーチしてんだ?明らかに時間と税金の無駄遣いだろ。この国の教育ってのはなってないな。まったく。もっとまともな人間呼べよ。飯野賢治から何を学べっていうんだ。一体。全体。どうしろと。








とにかく、である。

毎日のように読んでいたブログのブロガーが「今日はバスに乗り遅れたので自転車盗みました!」などと言いだしたら、次の日からも同じように読めるだろうか。あるいは、これまで読んできた過去ログに対して同じような読感を持てるだろうか。


もちろん「何も変わらないさ」と言う人もいるだろう。
その人が殺人犯だったとしてもテロリストだったとしても、クーラーかけて涼んでいるような輩だったとしても、文章は文章シングルコンテンツとして消費し、書き手が聖人だろうが罪人だろうが関係ない、という人もいるだろう。多分、物凄く少ないとは思うけれど、きっといるのだろうと思う。








残念ながら、あるいはおめでたい事に、僕はそういう類の人間ではない。
書き手の人間力を見て、書き手が駄目なら文も駄目とする類の人間である。


食べ物を粗末にする奴の文章は問答無用で駄目であるし、宗教を信仰するような人間の文章などは言語道断である。ギャンブルをするような人間の文章など目にするだけ時間の無駄であるし、十五歳を越えてゲームをやっているような人間の文章は瞬間速攻脳内ゴミ箱送りだ。煙草を吸うような人間はその時点でstfuであるし、酒を飲むような人の文はstfu以前の論外だ。犯罪者の文章などは当然のこと、十三歳を越えて童貞である奴の文章などは1文字読むのも時間の無駄は当然だ。また、ブログなんて書いている人間にろくな奴はいないというのはもはや公然の秘密であり、ブロガーの文章などというのはその時点で願い下げである。







となると、困る。
非常に、困るのだ。
読める文章が無いのである。

いや、まあ、じゃあ読むなってのもある意味では正論であるが、やっぱりたまには何かを読みたくなったり、検索エンジンでブログを漁ったりしたくなるわけであり、自分そっくりそのままの、ニュートラルモードでは二進も三進もいかないのである。

そこで、やむなく、全てのフィルターをOFFにして読んでいる。
そうすると、どのような人間の書いた文章であっても問題なく読めるのだけれど、今度は俺フィルターの喪失という重大な問題が立ち上がり、素直な自分としての実直な姿勢で文章を捕らえられない、逆色眼鏡現象とでも言うべき現象が起こってしまい、「こんな読み方でいいのか」と自分の態度に疑心が生ずる。

そこで、編み出された解法が、数秒毎にフィルターをオンにしたりオフにしたりしながら読む、というものであり、"駄目"と"ふむふむ"とが数秒おきに繰り返される駄目ふむ状態でなんとかどうにかかろうじて、ウェブ上の文章という文章を読み漁っているのである。








世間には朝日であるというだけで全ての文章を駄目であるとする人間がいくらかはいるような印象を受けたりする中で、この人達は真性引き篭もりの文章などを真面目に読んでいるのかまったくもって馬鹿だよな的二重構造の、レッテレッテル張りを、ONにしたりOFFにしたり、OFFにしたりONにしたり。