2005年8月5日金曜日

連帯責任はキモチイイ



明徳義塾高校が甲子園出場を辞退した。
いわゆる、連帯責任というやつである。

「連帯責任に意義があるのかどうか」
そんなもの、考えるだけ無駄である。









問題は、なぜこのような事が起こったのか、という事だ。
答えは単純、にして明快つまりは簡潔。


「連帯責任を取らせてやりたい」
と思った人間がいたからだ。

喫煙や部内暴力に関わっていない部員やその家族までをも失意のどん底に落とし込んでやろうと憎み立ち、ドンピシャのタイミングでそれを告発した人間がいたからだ。





憎しみが行使された。
それだけの話である。


坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
言葉の通りだ。人間は憎しみという感情を抱いた時、無関係のものまでをもチェイン連鎖で関連づけて、その全てを憎み、あらゆる機会を通じてその憎しみを行使する。


911以降、幾らかの米国人にとってアラブの人という存在は、イスラム教徒であるというだけの理由で憎しみの対象となった。テロリストとアラブ人の関連づけに正当性があるわけなど無い。実に愚かな憎悪対象の拡大だ。






なのに、それは行われる。

憎しみの行使、即ち擬似的な復讐の実行は、とってもキモチイイからだ。
憎悪を抱き、その蛇口を捻ってぶちまけるという行為は、普遍的な快楽だからだ。憎しみの行使という快楽を得る為の行動において、理由付けやら正当性、あるいは理解無理解といった基軸の思考はまったくもって不必要なものである。






つまり、丁度、今頃は。

日本中の各地という各地至る処のあちこちで、高校球児というものになんらかの憎しみを抱く明徳とも義塾ともまったく無関係な幾多無数の人々が自身の憎しみと明徳義塾とを関連づけて、「ざまあみろ」「ざまあみろ」とほくそ笑んでいるのである。そして、甲子園を逸した明徳義塾の球児達は、その人生の喪失の原因を何者かに求め、憎しみ憎悪を噴き炊き上げる。





だって、それは、キモチイイ。
鬱憤晴らしにはもってこいだ。
ストレス解消にうってつけだ。